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3月① 湖畔なる火の見櫓や枯れかづら(福井県三方五湖畔の火の見櫓)

  写真:福井県(旧)三方町、見方五湖畔の火の見櫓(撮影:阪本紀生)

 江戸の街における火消しの制度の成立がきっかけとなって、全国に火の見櫓が広がったのだそうです。で、昭和初期には、ほぼすべての地域に火の見櫓が実在したといいます。

 ただ、その後、まず大都市を中心に、やがてすべての自治体が消防本部や消防署などを整備します。
 さらに電話の普及に伴って119番による通報体制が整います。結果、火事の発見を担う番人を置く必要は薄れていきました。

 さあ、そこで……、救急車はサイレンを鳴らすだけですが、消防車は、
 「ウー、カンカンカン」
 サイレンに加えて鐘の音が加わる場合があります。調べてみると、消防車の出す音は道路交通法で全国一律に決められているのだそうです。

 つまり、火災出動の場合のみ「ウー、カンカンカン」と警鐘つきのサイレン、それ以外の救助・救急支援・警戒などの場合は「ウー、ウー……」とサイレンだけが鳴らされることになっています。
 ですから、救急車が警鐘を鳴らすことはありません。

 ところで、消防車がサイレンに加えて警鐘を鳴らすようになったのは、どうやら火の見櫓の半鐘が打ち出す警鐘にならったもののようです。
 こうした習慣は、消防法が制定された1958年ごろに成立したのだろうとされています。

 なお、蛇足ながら火の見櫓は、その利用の性質上、誰もが容易に立ち入ることができたようです。そのため、換金価値のある金属製の半鐘の盗難があいついだ時期があったとも言われています。
 いつの時代にも「不心得者」がいなくなることはないのでしょう。

 ただ、やや唐突ながら、国家権力の最高位とその周辺にある政治家、それに連なる「エラそうな人たち」が「法を無視して国家を私物化」するような「不心得」だけは謹んでもらいたいという気がしきりにします。

 そんなことを思いながら、こんなエッセーを書いてみました。おひまなときに、ご覧ください。

 「こわいもの」の典型を俗に「地震・雷・火事・おやじ」という。前二者は自然現象だ。が、後二者には人間がかかわっている。

 そのうちの「火事」に関しては、木造の家々が軒を並べる日本の町や村を思うと「無理もない」というべきなのだろう。昔の日本では、出火の責任は「村八分」、ときに死罪につながる場合すらあった。

 で、江戸時代、消防組織が立ち上げられた。
 江戸では幕府が頻発する火事に対応して防火・消火制度を打ち立てる。武士の組織の武家火消と町人の組織の町火消だ。
 武家火消には、幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)大名火消が組織された。

 江戸以外の町でも、大きい町は単独で、小さな町は近隣で、組合形式の町火消が運営された。
 町ごとに番屋や番所を設置し、番太郎番太と呼ばれる番人を設置して四六時中、警戒に当たった。

 そのため広く見渡せるよう櫓を組み、3丈(約9メートル)程度の「火の見櫓」と呼ばれる見張り台を設置する。で、出火を見つけると江戸では太鼓、町方では半鐘を打ち鳴らして急を知らせた。

 それにしても、ここ(旧)三方町(現在は若狭町に吸収)の、かづらが巻きついた火の見櫓の2本の柱の真っ直ぐに伸びた見事さはどうだろう。

 それについて柳田國男は「国土山川の色様々の美しさと旅する者の新たなる情感」を記した『豆の葉と太陽』に、

 「この柱の素材は杉で、わざわざ火の見櫓用に、初めから計画的に作られたもので、育成期間は30年余に及ぶ」

 という意味のことを記している。

 それは、性急なぼくら現代日本人の想像力を超えているような気がしないでもない。というのも、ふたたび柳田を引くと、

 「村の長老等は木の未来と共に、村の未来を予測すること、我々が明日の米を支度する如く、30年後の火事を発見して半鐘を打ち、且つ見舞に行くべく、今からこの杉の木を栽ゑるのである」

 そういえば火の見櫓の横に建つ、茅葺きの舟屋も、古い時代の、湖に漁る漁師たちのひた向きな生業を彷彿させる。

 もとより古いから価値があるのではない。その土地で手に入る素材を最大限、巧みに利用した人工の構築物は周囲の風景に馴染み親しむから価値があるのだ。

 ただ、これらの構築物は平成初期に命脈を絶ったようだ。
 どうやら現代日本人は、わずか数十年先ですら、それを見通す想像力を失ったのかも知れないと思わされる。


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