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実家を片付けました 。そして父の死

久しぶりに書いています。先月末から1週間、完全に実家を片付け、永代供養をお願いしているお寺の住職に会いに弟を二人、実家の両親を見舞いに行きました。

おそらく今生の別れ

父は、恐れ多くも天皇陛下と同じ2月23日が誕生日。5月の時に主治医から余命2週間を告げられてからすでに延命半年になろうかとしています。ですが、母とは違う施設で再会した父は、あの時よりさらに痩せていました。あまり食欲がないようでした。本人曰く”なかなか死なないんだよね”と、冗談交じりに行ったので、”まだまだ生きてもらわなきゃだめだよ”と窘めると、いつものにこにこ笑顔がこぼれました。父は大学時代に落研だったこともあって、いつも冗談ばかり言っていた毎日でした。この時、おそらく父は私と生きて会えるのはこれで最後だと思ったのでしょう、父らしい言葉だったと思います。お寺に行って、住職と話したことなどを伝えると安心したようで涙を流しました。いっぱい体を撫でて、病院を後にしました。

11月3日に自宅に戻るも、89歳23日に力尽きる

それからは、穏やかに過ごしてくれたのだと思います。でも、いつでも連絡がきてもおかしくない状況でした。11月は、孫である息子は友人二人の結婚式に参列することがあったり、私たち夫婦も大規模なキャンパーたちの集いに役員として企画参加することがあったので、心の中では、電話がないことを祈っていました。なんとか今年を持ち越せるかな?と思っていた矢先、これらのイベント完了を見届けたかのように、老衰にて23日に旅立っていきました。それは、毎朝主催している勉強会の最中、弟経由で施設からの電話で父の死を知りました。すぐにホテルと、そして飛行機はとれなかったので、新幹線を押さえて夫婦で列車に飛び乗りました。先に施設に到着した弟は、予め父が予約していた葬儀社に連絡をし、段取り良く安置室に父を運んでいました。神戸にいる息子と同じ新幹線に乗って合流し、最寄り駅には弟に迎えに来てもらいました。父の顔はそれはとても穏やかだったので、全く苦しまず、眠るように息を引き取ったのだと思います。弟と二人で母を施設に迎えに行き、車いすに乗せて父と対面させました。そこに横たわっているのが、父とわかっているのかいないのか、自分の夫である遺体を前に、呆然とみつめるだけでした。全員がそろったところで、納棺師に身支度をしてもらい、皆で顔を拭いたり、体をさすったり、感謝や労いの言葉をかけました。大のジャイアンツファンだった父に新聞屋さんからいただいた、2020年の優勝バスタオルを父にかけ、母の編んだ手編みの腕カバーを両側に置きました。それは、最後に会ったときに寒くないかと尋ねると、”お母さんが編んでくれたカバーが暖かいから大丈夫だよ”とにこにこ顔で話してくれたものでした。父の好きだった紙パックのお酒もいれました。また、私たち夫婦、弟、息子の4人で父に手紙を書いたので、それも一緒に棺にいれました。

お誕生日付近に亡くなる説

人は、60歳を過ぎると自分の誕生日に死ぬ確率が高くなるということを、聞いたことがあります。記念日反応というのでしょうか。父の妹である叔母は、10年前の6月23日である誕生日の前日の22日に77歳で亡くなりました。独身だった叔母は施設暮らしでしたが、体調が悪くなり、病院へ入り、1か月後に亡くなったのですが、不思議なことに亡くなった日、なぜか、叔母が私を呼ぶ声が聞こえました。その日の夕方に父からの電話で亡くなったことを知りました。生前、一番私をかわいがり、結婚した時も、息子が生まれてからも交流していた叔母は、最後に私に会いに来てくれたのかもしれません。父も月命日になる23日に亡くなり、旦那の父親も3月3日の誕生日の3日後の6日に亡くなりました。人は年齢を重ねると、今までぼんやりとした”人はいつか死ぬ”ということをさらに現実味を帯びて自覚するからなのかもしれません。

父の死を見ておもうこと

父はよく、”考えても変わらない過去の出来事については、考えないことにしている。”と、よく言っていました。くよくよしない、悩んだところで解決できないなら、考えないで、笑って明るく過ごすほうがいいに決まっている。父の死を悲しんでばかりいてはいけない。残された母を見守り、いつか訪れる母の死に覚悟をもっていこう。そして、私もいつかあの世に旅立つ。それは絶対に避けることができないこと。それまでに、どれだけ精一杯、一所懸命生きたか、満足のいく一日を過ごせたか、与えられた命を全うするためにどれだけこの世でできたのか、それを大事に生きていこうと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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