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もう一つの人生

 桜の花が散っている。
 前を歩く、ランドセルの背中に。
 お父さんと、お母さんと、間に挟まれた男の子。大きすぎるランドセルを、誇らしげに背負っている。
 ちら、とこちらを振り向いた母親は、私と同じくらいの年だった。
 あの時、彼の裏切りを許していたら。
 私は、古傷を思い出す。
 結婚が決まっていた。休日の度に、式場を巡りをしていた。私は、幸せの絶頂だった。でも、彼は私を裏切っていた。
「彼女とは別れる!遊びだったんだ!」
 彼はそう言って土下座した。そんな彼を、私は、冷めた目で見降ろしていた。
「許してあげたら?」
 母はこういった。
「せっかくご縁があったんだから」
 私は悩んだ。けれども、やはり許せなかった。そして、私達は別れた。
 でも、時々こうやって思い出してしまう。彼を許して結婚していれば、どんな人生だったんだろう、と。
 やめよう。
 私は、頭を無理やり切り替えて、職場に向かった。

「本田さん、初めまして」
 私は、老女に声を掛けた。車いすに座っていた彼女は、ゆっくりと私を振り返る。
「あら、初めての方ね」
「はい、関根です。よろしくお願いいたします」
 私は、安心させるように微笑む。申し送りによると、彼女は騒いだり暴力を振るったりするタイプでは無いらしい。
「桜が綺麗ねぇ」
「少しお散歩しますか?」
「嬉しいわ」
 本田さんは、童女のような笑顔を向けた。
 私は、彼女の車椅子を押して、向かいの公園へ行った。平日の公園は、犬の散歩をする人や、保育園児で賑わっている。
 ひらひらと、ピンク色の花びらが本田さんの膝に落ちる。
「あのねぇ、桜には思い出があるの」
「どんな思い出ですか?」
「うふふ、恥ずかしいんだけど、主人がプロポーズしてくれたの、桜の木の下で」
「そ……そうなんですね」
 私は、少し動揺した。本田さんは、薄く頬を染めて話を続ける。
「無口で、頑固だけど、根は優しい人だったのよ。私の誕生日には必ずケーキを買って来てくれたの。それも、いつも苺のショートケーキ」
「そうなんですね」
 私は、微笑みが引きつらないように気を付けながら、本田さんを見守る。彼女の顔は穏やかで、目線はどこか遠くを見ていた。本当に過去を思い出している人のようだ。
「だからね、娘が文句を言うの。お父さんは、いつも苺のショートケーキばっかりだって。あの子はチョコレートケーキが好きだから」
「……に、賑やかなご家庭ですね」
「ええ、幸せな家庭なのよ。……貴方、ご結婚は?」
「いえ、まだです」
「そう。貴方みたいな自立した女性にこんな事言うと怒られちゃうけど、結婚って、良いものよ」
 本田さんは、娘に諭すようにそう言った。
「そうなんですね」
 私は、そう返事をする。そうとしか返事出来なかった。
 本田さんは、ずっと独身だ。彼女の身元保証人は実の弟だ。もちろん、娘さんなど居るわけがない。
「そうそう、主人はね」
 本田さんは、桜の下で嬉しそうに話を続ける。
 もしかしたら、彼女の語る話は、彼女が選ばなかったもう一つの人生なのかも知れない。

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