現代オリンピックの発展と危惧1940-2020:二度目の東京が目指すものを読んで 戦後のオリンピックの歴史を少し詳しく見てみる

続いて石坂氏の著作を読んでみました。
前回の著書はごく最近(2021年7月発行)です。
今回の著書はそれより前で2018年1月の発行となっているようです。
東京オリンピックを控えて、(ほぼ)戦後のオリンピックムーブメントについての著作のようです。

恒例のごとく読書ノートをベースとした書評ですので、私の読書ノートの凡例を示しておきます。

・;キーワード
→;全文から導き出されること
※;引用
☆;小理屈野郎自身が考えたこと

まずは書籍のメタ情報を。

書名 現代オリンピックの発展と危惧1940-2020:二度目の東京が目指すもの
読書開始日 2022/02/27 22:11
読了日 2022/03/04 13:06

感想

概略

五輪関連の第一人者と言うことで、64年東京大会の後の著作として購入。
どのような論点が出てどのような論争があるのかある意味楽しみではある

読了後の考察

オリンピックの歴史を通じて、どのようにオリンピックは社会を「生き抜いて」来たかについて淡々と筆を進めている。
そして、理論的な面からの20年東京大会を論じている。
論点はもっともだと考えるが、大会直前直後にはあまり意味のない論点だと感じました。
むしろ、候補地立候補前と、実際に開催してから一定の期間がたった後は非常に重要な論点だと考えました。
多分、「もう開催が決まっているのに、開催するかどうか、と考えるか」という問題(もちろん開催権の返上という選択肢もあるが)、そして実際に開催する、と決めてからもこの議論はある意味邪魔になるかも知れないと考えるからです。
開催する、と決めたら、そちらに向かって最大限の努力が必要。
それが終わった後に真摯に批判的に大会の意義などを考えていけばいいのではないか。今後東京大会を振り返る意味では非常に重要な視点の提供だと思う。
さらに、オリンピックはちょっと前までは国の成長の起爆剤とすると非常にうまくいく(個人的にはマイホームを建てるようなもの、人には一度ぐらいマイホームを考える時期があるのと同様、国にも歴史や経済発展上一度ぐらいはオリンピックを開催するに至適な時期があるだろうという考え方です)様な感じがありました。
しかし、うまく回らなくなってきて商業主義が台頭してきます。大会開催については収支計算上問題ないもののそれに付随する社会インフラの整備などで結局大金を使うことになっています。
それもうまくいかずレガシーをつくろうとしたが、こちらもうまくいかなくなっている。
今後はパラリンピックとの融合とか、環境面に非常に配慮した大会などにならないとうまくいかないのではないか。それとアマチュアリズムからくる精神と価値観をしっかりと持っていなければならないのではないか?と考えました。

こうなってくると開催というのは非常に難しくなるかも知れないと考えています。

本の対象読者は?

オリンピックの歴史を知りたい人
オリンピックと社会の関わりについて学問的に追究したい人
スポーツ社会学に興味のある人
20年東京大会の意義について考えたい人

著者の考えはどのようなものか?

・オリンピックの歴史およびその展望

まずはクーベルタン男爵のアマチュアリズムから始まり、さらにナショナリズムの勃興があった。そしてナショナリズムだけでは大会を維持できなくなり、商業主義が入ってくる。そこで露骨な商売が行われるとともに、テレビ放映に併せて選手がないがしろになることがあったりドーピングが問題になってくる。
さらにアマ規定・プロ規定の考え方がなくなってくる。ルール変更等を行い、商業ベースに乗るように競技を変えてしまったりもする。そして次にレガシーを重視した作戦で間接投資(開催に伴うインフラ整備など)を正当化してくる。
つぎにレガシーを考えるときは負のレガシーについては完璧に無視。このあたりのやり方もうまくしていると思う。しかしこれでもうまく回らなくなっているのが現状
次はジェンター関連や障害者との包摂、そして環境を特に意識した大会になるのではないかということになっている。

・オリンピックの中立性

ここで注目しておきたいのは、オリンピックは中立的と考えられるが創設されたときからすでに政治的であり商業主義的であったことは忘れてはならない。

・オリンピックにおけるアマチュアリズム

そしてアマチュアリズムは、元々高貴な人たちが暇に飽かせてするスポーツの作法であったことであったことも忘れてはならないだろう。アマチュアリズムについても元々の理念が中立というわけではないことを明記しておく必要があるだろう。

・アマチュアリズム(アマチュア規定)の日本的な解釈

日本の場合は企業が選手を抱えることによってうまく逃げたパターン。これもおかしい話ではあるが。
日本の国民性を映しているいるなと感じました。ただし昨今、経済状況がこれを許さなくなっているところにも注意が必要だと思いました。

その考えにどのような印象を持ったか?

20年東京大会に対する結論に近い筆者の持論のみを聴くと、批判的な言及が多く、何だかなあと思っていましたが、この著書を読んだら納得するところが多々あります。
筆者の持論はもっともであると考えますが、いまは少し議論するには時期的に早いのかも知れないと考えました。
しかしこのような著書を早めに出しておくことで読者が状況を吟味しながら思考をすることができる、という意味では意味のある著作だと思いますし、問題提起としてもよい姿勢だと考えます。

・どうしてここまでオリンピックは人々を引きつけるのか

ここをしっかり考えておかないと行けないと思います。
なんとなくオリンピックって言ったら思考や感覚のモードが変わって言説を捉えてしまいますよね。その違和感にはしっかりと文責が必要だと思います。

理由としては著書では3つ程度提起されています

→祝祭便乗型資本主義
経済利益と言うよりも祝祭そのものを駆動力として展開する資本主義の一側面。

☆確かにお祭りだから、というところはあるかも知れない。それも毎年だったらここまでは熱狂せず、4年に1回と言うところが微妙にいいのだろう。

→うまくカバーされたアマチュアリズム・道徳劇としてのスポーツの様態を過度に求める姿勢

→選手たちの戦い

☆それを過度に美化して物語化してしまうところ。

等があげられている。

・20年東京大会の問題

→理念がない

最初は復興五輪ということにしていたが、原子力発電所の問題が全然前に進んでいない。さらに具合の悪い状態が続いており悪化している可能性もあると言うことから、あまり復興に触れなくなった。
そして、最後震災復興は無理だ、とIOCや欧州各国が思い出した所にコロナ禍が発生。東京大会開催権は返上させてパリ大会でコロナからの復興大会としようと思っていたがそれにJOC上層部が反抗して、大会を強行する方向に行ったと言うことだろう。
(野地氏の著作の中の情報も取り入れながら考えた私論)
これが一番の大きなこと。このように理念がうろうろしているからメインスタジアムの問題、ロゴマークの問題などが噴出したのではないかと考える。

・今後の日本の五輪との関わり方

→もちろん開催はもう考える必要はないと思う。冬季大会は芽がありそうな感じがするが、理念をしっかり立てて(例えば環境保護系の大会にするとか)開催できるかは慎重に考えるべき
本的には参加ののみでよいと思われる。強化費はマイナー種目にも目配りをする必要があると思う。
→個人的な配慮;テレビのドラマ仕立てにだまされない

ぐらいなものかと思っています。

質問5 印象に残ったフレーズやセンテンスは何か?

※東京大会は3度の歴史において、常に何らかの復興と関係性を持ってきた/持たされてきた。

→☆確かにそうだ。因果な話。

※その都市、国にとってなぜ五輪が必要なのか。それは日本国民が決めること。

→☆ロゲ元会長(当時)が言ったことだが、これもひどい話だなあ。
都合が悪くなるとこのように突き放す。IOCの姿勢も問題になってくるのは時間の問題だと思う。

※商業主義に魂を売り渡したかのような批判をかわしてきたのは、クーベルタンが掲げた平和思想やアマチュアリズムの家庭を重視する(とされた)価値観、そして新たに追加された環境と持続可能性と行った価値観や理念を、かたくなに繰り出す姿勢とそれを支持する人々の存在であり、そこにこの力の源泉があった。
※理想を語る多くの言説を遙かに超えるオリンピックの醜聞が浮上し、年の経済的破綻によって住民の生活が脅かされるようになったとき、その象徴的な力はいともたやすく無力化される。

類書との違いはどこか

五輪について社会学的なアプローチをしっかりと採っているところ。
孫引き論文についてもしっかりとまとめている。

まとめ

個人的にもそろそろオリンピック、再考の余地ありと思っていたが結論は一緒だった。
非常に丁寧に過去の大会のことを社会学的にまとめているところが印象的だった。

これでいったんオリンピックについての考察は終わりです。

個人的にはやはり、これからは参加することはいいと思いますが、開催するのはあえて推し進める必要はないのではないかと考えています。
選手たちの目標になっているスポーツ大会の最高峰ですから、さらに選手にとっても、開催都市にとっても、そして観客にとってもよいものになることを期待したいと思います。

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