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ポイ捨てするなら堂々とやればいいのに

仕事終わりに日課となっているちょっとしたウォーキング。
距離は短いけれど、歩いて10分くらいの山になっており、歩道もしっかりと整備され街頭も毎日明るく照らされていることから歩きやすく短時間でも割とちょうど良い運動量になる。

麓には駐車場と自動販売機と綺麗なトイレもあり、1日を通して訪れた方や仕事をサボっている方や車内で何かしらしながら過ごしている方など様々な方を見る。

その日も夜の20時頃に到着し、いつも通りのちょっとしたウォーキングをする。
無事に終わり車に乗り込んだところ、20代くらいの3人組だろうか楽しそうに歩いてきた男女が目の前を歩いた。

手には飲み物の空き缶と、ちょっと膨らんだビニール袋。
夜に集まり外でマクドナルドかケンタッキーかわからないけど飲み食いでもしたのだろうか。
自分にも同じようなことをしたことがあるような記憶はある。
夜のちょっとした肌寒さを感じながら、友達と色んな話をしつつご飯を食べる。仕事の愚痴、恋話、夢の話、馬鹿話。
青春の一幕とでも言おうか、小さいけれど思い出に残る良い時間だろう。

その3人組は自販機が並んだところに行き、手に持った空き缶を捨てると同時に一人の男性がゴミが入っているであろうビニール袋を空き缶用のゴミ箱の上に置いて行った。

あたりをキョロキョロと見回しながら、そっと置いてまたキョロキョロと周囲を警戒しながら急ぐように車に乗り込み走り去っていく。

その姿がとてつもなくカッコ悪く見えた。

ゴミをポイ捨てすることはもちろんだが、それにも増して辺りをキョロキョロとしている姿がさらにカッコ悪い。

おそらくポイ捨てをした本人の中にも、今自分がやっている姿を客観的に見て、カッコ悪い、恥ずかしい、バレるのが恐い、モヤモヤとする、知られたくない、そんな思いがあるのだろう。
もちろんポイ捨てをするような人だ。5分後にはほとんど気にせず忘れ去っているかもしれない。
けれど記憶というものは流石にそうそう早くは消えない。寝る前に一瞬でもゴミをポイ捨てしたことを恥ずかしく思いながら目を閉じることになる。
次の日からも、あの時にゴミをポイ捨てした恥ずかしい自分という自己否定の意識と付き合いながら日常を過ごすことになる。

結局一番めんどくさい時間を過ごしているのは、そのゴミを片付ける人よりも自分自身の方なのだ。
それに比べたらまだ面倒でも自分でゴミを持ち帰って自分の家のゴミ箱に捨てた方が遥かに楽。
面倒を避けたくてやった行為が、結局一番面倒という本末転倒なことなのである。

そして何よりも、カッコ悪い自分という意識。これは実にすっきりとしない。
その意識はこれからの生活の中で本人が気づかないうちに表にも出てしまう。表情やしぐさや行動や発言の一つ一つに、自分への自信のなさや意識の低さが露呈する。そして人格のレベルが高い人にほどそれをすぐに見抜かれてしまう。

ここまで勝手な予測の話をしてしまうのは流石にポイ捨てした彼に失礼であろうが、単純に楽しかった友達との思い出の時間をポイ捨てで締めくくって良いだろうか。
持ち帰って楽しかった時間に思いを馳せながらゴミ箱に捨てる方がより良い時間ではなかろうか。

だから思う。
どうせポイ捨てをするのなら堂々としたら良いのに。

ゴミをポイ捨てしても全く気にしない、自己否定もしない、後悔もしない、バレても良い、人の迷惑なんて知ったことなく捨ててやる。
そこまで厚顔無恥で生きているのならば、もっと堂々と捨てれば良い。
いやもちろんそれでもポイ捨てをしても良いとは言えないが。

けれど彼は違った。キョロキョロと辺りを見回しながら誰かに見られる恐怖心に支配されながら恥ずかしい思いのままポイ捨てをした。
だったら捨てなきゃ良いのに。
面倒な作業を省いて楽をしたと思いたいのだろうが、実は楽ではないことを誰よりも本人が一番よく体感している。

誰しもカッコいい自分、美しい自分、自信がある自分、堂々としていられる自分、人に見せたい自分、そういった姿に憧れている。
それは何かで大きな成功をさせたり記録を残したりフォロワーが何人いたりとか目に見えることではなくても良い。
ゴミを持ち帰り自分で処分した自分。そういった小さなことでも実はカッコ良く自信があり堂々とした自分でいることができる。
反対にその小さなことをしないだけで、すごくカッコ悪い自分になってしまう。

だから捨てなきゃ良いのに。

カッコいい自分だったら、今そのゴミをどうするだろうか。

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