大学受験のための映画講義#8

こんにちは。與那覇開です。

だいぶ期間が空いてしまいましたが、「大学受験のための映画講義#8」をお送りします。今回のテーマは、「家族」です。

皆さんは、家族という言葉にどういうイメージを持つでしょうか。「絆」、「愛情」、「支え合い」等々、おそらくこうした肯定的な言葉が出てくるものだと思われます。しかし一方で、家族の存在が息苦しいと感じることもあるのではないでしょうか。離婚、別居にはじまり、家庭内暴力、ネグレクト、孤食など、家族の問題は社会問題にもなっています。おそらくこうした問題には、家族の息苦しさが深く関わっているはずです。では、その息苦しさは一体、どこからやってくるのでしょうか。韓国映画『息もできない』(2008年)から、家族の問題を考えてみたいとおもいます。

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『息もできない』あらすじ

韓国映画『息もできない』は、俳優のヤン・イクチュンが、監督、脚本、演出、主演を全てこなした独立映画です。通常の独立映画と同じように低予算で製作されましたが、世界各国の映画賞を総ナメにした、まさに「伝説」の映画です。主人公は、サンフン(ヤン・イクチュン)。坊主頭でふてぶてしい表情からは、すぐに堅気の人物ではないと分かります。サンフンは、借金回収をしたり学生デモを潰したり、いかがわしい事業で金を稼いでいます。先輩にも「シーバルロマ!」(韓国語の罵倒語)と悪態をつき、後輩には問答無用で殴りつける。暴力でしかコミュニケーションが取れない人物です。こうしたサンフンの横暴さは、実はサンフンが過ごした家族という場所と密接につながっています。映画のなかで回想されるサンフンの父親の家庭内暴力は凄惨そのもの。父親は母親が死ぬんじゃないかと思うくらいに殴り続けます。サンフンと妹は痛めつけられている母をただ黙って見守ることしかできない。夫婦の喧嘩はエスカレートし、ついに父は包丁を手に取ります。見かねた妹が止めに入ろうとしたところ、誤って妹の方が刺されてしまう。妹はすぐに病院に運ばれましたが、もう手遅れで、結局、妹は死んでしまいます。韓国語で悪いことが重なることを、ソルサンカサン(설상가상)と言いますが、まさにその言葉通りに、妹が運ばれた病院に向かう途中で母は事故死。そして父は刑務所行き。サンフンはひとりぼっちになってしまいます。以降、サンフンはずっとひとりで生きてきました。家族を失ったサンフンが、以降どのように生きてきたのかは映画の中では語られていませんが、誰彼問わず「シーバルロマ!」と悪態をつくその姿からは、社会のアウトローを生きてきたのだなと感じさせます。一方、女子高生のヨニ(キム・コッピ)は、ベトナム戦争でPTSDを患った父の世話しています。屋台を経営していた母親は死んでしまいました。家賃が払えなくて今にも家を追い出されそうになっているのに、父はいつも癇癪を起こすし、不良の弟はトラブルだけを持ち込んでくる。多くの人にとって安息の場である家庭はヨニにとって息苦しいものでしかありません。まさに「息もできない」。サンフンとヨニ。ヤクザと女子校生。二人とも勝ち気で気丈に振舞いますが、ともに幸せな家族をもてなかった点で似たような境遇にいます。この二人が出会ったとき、どのような物語が始まるのでしょうか。

イデオロギーとしての「家族」

家族空間が成員同士の親密な場となったのは、実は近代になってからのことです。明治期における修身の教科書のディスコースを分析した牟田和恵氏によると、明治初期には、子供が奉仕する対象は親だけではなく、親族も含まれていましたが、明治20年以降は、もっぱら子は親へ奉仕することが美徳とされているようです。近代国家を特徴づける言葉として、「富国強兵」というキーワードがあります。「富国」=経済力、「強兵」=軍事力は、近代国家が生き残るための生命線です。テクノロジーやハイテク機器が未熟だった当時においては、経済力、軍事力を支えるものは人でした。近代とは、国力=人口の時代であり、近代国家は国民の人口に関心をもたざるをえないのです。さて、国家はそんな大事な成員の育成を自らは担うことはありません。その代わりに、家族にその役割を負わせます。その際、伝統知を持ち出してくる祖父母は家族の親密圏から排除され、近代的主体を内面化した両親によって子供が愛情深く育てられることが規範となりました。良妻賢母というイデオロギーはこの規範をさらに補強します。こうして、家族=〈情愛で結ばれた親子〉という新しい観念が誕生しました。以下の文章は、2015年の青山学院大学の現代文から出題されたものです。

産業化の萌芽する明治二〇年代、それまでの親への孝や家督を絶対視する家族観念を批判し、夫婦と子ども中心の情愛あふれる欧米を範とした「家庭(ホーム)が称揚される。
(牟田和恵『戦略としての家族』新曜社)

「夫婦と子ども中心の情愛あふれる」家族像を、ここでは近代家族と呼びたいと思います。「近代」という冠をつけるのは、こうした家族像が伝統的に受け継がれたものではなく、特定の時代の制約を受けたイデオロギーであるからです。もちろん近代家族の役割を、欺瞞だとか偽りだとか言いたいわけではありません。好きな人と結婚して子供をもうけて、仲睦まじい幸せな家庭を築くことは私自身も夢見るところですし、素晴らしいことだと思います。しかし、近代家族がイデオロギーである以上、その論理を無批判に内面化してしまうことは、やはり問題があります。家族が深い情愛で結ばれていなければならないという規範は、家族の息苦しさと表裏一体です。たとえば、家庭内暴力などというのは、親密な家族空間においては決してはあってはならないことであり、その「あってはならない」という規範の強さが、そうした暴力を覆い隠してきました。明白な傷害罪である家庭内暴力は、家族という聖域に守られ、近年まで警察権力が踏み込めない領域でした。韓国では警察が家庭内暴力に介入できるように法改正がなされたのは、2013年になってからです(金ジャンディ『家庭内暴力』大阪大学出版会)。家庭内暴力の被害者が、法も適用されず、周囲に助けをなかなか求めることができないのは、情愛の絆という家族のイデオロギーがあるからです。ヨニはサンフンの前では、いかにも自分が裕福で幸せな家庭で育っているかのように演じます。もちろん、ここにはヨニの希望が投影されているわけですが、やはり注目したいのは、近代家族にとって家族の不和は隠さなければならないと思われていることです。どんなに家庭が崩壊していても、周囲には情愛溢れる家族像を振りまく必要がある。ここには近代家族のイデオロギーが作用しています。

家族という場所は近代政治の必要条件でありながら、家族で発生する問題は、巧妙にも政治の領域からは排除されています。まさにジョルジョ・アガンベンの「排除しつつ、包摂する」という領域が、家族なのです。「息もできない」をよく観ると、家族の息苦しさに国家の作為が張り付いていることがわかります。映画では困窮した生活に端を発する家庭内暴力がしばしば描かれますが、そもそも国民の安定した生活のためにセーフティネットを構築できていない国家の責任はここでは問われていません。圧縮型近代の韓国では、経済成長の一点突破で、国民の生活の底上げという観点は希薄でした。国民皆保険制度が出来たのは、1999年。国民基礎生活保障制度(日本の生活保護に相当)が出来たのは、2000年です。また映画では、戦争の責任が不問に付されている様子も描かれています。ヨニの父はベトナム戦争に派遣され、PTSD(心的外傷ストレス障害)を患い、職にもつけず、家に引きこもってテレビを見るだけの生活です。そして時々癇癪を起してヨニを困らせます。そもそもベトナム派兵は、韓国にとって何の利益もないにもかかわらず、米国に恩を売っておきたいという理由だけで決行された朴正煕大統領の独断によるものです。ヨニの父は国家による傷を負いながらも、国家はそれに対処する責任を果たしてくれません。こういうとき、国家は、「家族の絆」を持ち出して情愛による解決を促します。ヨニは本当であれば、友達とたくさん遊びたいし、彼氏だって欲しい、塾にいって受験勉強もいっぱいして大学にだって行きたいのです。しかし、ヨニはそうした全てのことを諦め、目の前にいる父や弟のために家事やアルバイトをするしかないのです。一方で、家族の支えがなくなり、ひとりになったサンフンも、ヤクザの道で生きていくしかありませんでした。さて、ここで考えたいのは、ヨニやサンフンの息苦しさをどうしたら救ってあげられるのかということです。はたして、それは可能なのでしょうか。可能だとしたら、どのような方法論があるでしょうか。

フェミニズムvsケアの倫理

まず、答えのひとつに、フェミニズムがあるでしょう。フェミニズムは、性別役割分担を押しつけられ、家事育児などの成員の世話をノーペイでこなす女性の置かれた不平等な境遇を告発します。近代は自由や平等を標榜しますが、それは家庭に閉じ込められた女性の不自由・不平等によって成り立つものでした。したがって、フェミニズムの理論では、不自由、不平等な女性の境遇を、近代政治にふさわしい位置、すなわち、男性の既得権益の場所(政治)に、主体として参加することを目指すことになります。しかし、フェミニズムの理論によって、ヨニは救われるのでしょうか。フェミニズムは、近代政治から疎外されている女性を、近代政治の主人公として自由に振舞うことを要求するものですが、はたして、ヨニはそのような主体を求めているでしょうか。そもそもサンフンの問題にいたっては、フェミニズムでは対処できないように思います。もし私たちがヨニやサンフンに向き合うとするならば、それは近代政治の主体となるために闘うことを促すのではなく、ヨニやサンフンの苦しさを取り除くこと、それができないなら、少なくとも緩和させてあげることではないでしょうか。近年、ケアの倫理という言葉が注目されています、ケアの倫理では、「お前も自由と平等を体現した主体になれ」というのではなく、声をあげられない他者に寄り添い、極力その危害を取り除いていこうという考えを実践します。ケアの倫理を支えるのは、修復的正義です。修復的正義とは、人と人との関係を紡ぐあり方に関心を向けることです。ケアの倫理が家族に注目するのは、まさに家族という場にこそケアの理念が具体的に実践されているからです。近代は自律的な主体を前提としていますが、人はもともと生まれたときは誰かに依存しないと生きられないか弱い生き物です。ケアの倫理は、人間の在り方を自律的な主体ではなく、依存的存在であると考えます。母親に依存する赤子は母親に何も配慮することなく泣き喚きます。母の愛は無償の愛だと言われますが、常にそうした善意で満ち溢れているわけではない。時には「もう煩わさないで!」と叫びたくなるときもあるでしょう。母親と子は常に軋轢を抱えてします。次の文章は、2018年早稲田大学・法学部の現代文から出題されたものです。

時に他者からの否応ない呼びかけによって自己が翻弄され、時に圧倒的に弱い他者を圧殺してしまいそうな誘惑に駆られつつ、だからこそ強い倫理が課せられた実践であることを知っている。ケアにはつねに軋轢が内在しているのだ。
(岡野八代『フェミニズムの政治学』みすず書房)

赤子は夜中だろうが入浴中だろうが、母の事情におかまいなく、泣き喚きます。それでも、母は子の暴力的ともいえる要求に非暴力で応じざるをえない。ここにケアの倫理が近代国家の抱える矛盾を超える鍵があります。近代国家の矛盾とは、自律的主体としての各成員の自由と平等を担保するあまり、各成員の差異に関心を向けなくなることです。各自の自由と平等は尊重されるべきであり、いかなる不公平もあってはならない。そのためには、自由や平等を守ってくれる法こそが何よりも重要になってくる。だから、近代国家の基本理念は応報的正義です。そこで求められるは法です。しかし、この遵法の精神は、法さえ守っていればよいという発想を許容し、厳として存在する社会的資源によって実質的自由が著しく制限されている人々への関心は希薄になります。言ってみれば、貧困ゆえに食べ物を盗まざるをえない人に対して「だからといって法を破るのはいけない」といってしまうのが近代国家です。逆に、ケアの倫理が掲げる修復的正義では、彼らを貧困に追いつめた社会の構造を問題視します。さらに彼らをこの危険な状態から保護することを志向します。おそらく「息もできない」に出てくるヨニに必要なのは近代的な主体ではなく、ヨニの息苦しさに寄り添うことではないでしょうか。またシーバルロマと悪態をつき、人を殴ってきかねないサンフンに対しても、非暴力な応答の回路を見出すことが、ケアの倫理では求められています。人と人との関係を紡いでいくケアの倫理こそが、ヨニとサンフンの窮状を救うのに最も求められているのだと思います。

シーバルロマは誰に向けられているか

人間が依存的存在であることに注目し、人と人とが関係を紡いでいくことで正義を実践するケアの倫理は、自律的主体を内面化させ、自己責任を押し付ける近代国家に対する強力なアンチテーゼです。そして、ケアの倫理は、修復的正義が実践されている場所として、家族という場所に注目します。暴力に対する非暴力な応答といった母の姿に象徴されるように、家族空間には、自己責任のもとに弱者を切り捨てることで突き進んできた近代社会を組み替えていくヒントが数多く存在しています。次の文章は、2012年早稲田大学・法学部の現代文から出題されたものです。

改めて家族が見なされねばならない。成員個々の弱さが露わになり、それを通じて相互の依存が不断に営まれるはずの場所だからである。自分と同じように年老いるし老衰もする存在と日常的に相互交渉するはずの場所だからである。あるいは、そのような「養育」の場として「覚醒」されなければならない、と言うべきだろうか。
市村弘正『小さなものの諸形態』筑摩書房

当たり前のことですが、私たちは誰だって弱い存在です。赤子のときは誰かに世話をしてもらえなければ生きていけませんし、今は強者の位置にいる人でも、いつ弱い立場になるかは分かりません。そもそも人間は誰だって衰えゆく存在なのですから、私たちは、着実に弱い存在へ向かって歩いているようなものです。私たちは、必ず誰かに依存して生きています。そしてなかには、依存したくてもできない人たちもいます。ケアの倫理では、そういう人たちの声を発見し、今にも押しつぶされそうなその生に応答し、包摂します。しかし、近代の論理では、こういう人たちに対して、十把一絡げに自律的主体を想定し、「自己責任だ」「主体となって戦え」などといいます。これは一種の暴力でしょう。サンフンの「シーバルロマ」という罵倒語は、実は、自己責任を押し付けてくる社会に対して向けられているのではないでしょうか。

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