大学受験のための映画講義 #6

こんにちは。與那覇開です。
受験生は共通テストお疲れ様でした。毎年、この時期は本当に仕事が忙しい。およそ二カ月ぶりの記事更新になります。
さて本日は「大学受験のための映画講義」の第6回目です。
今回はインド映画『ピザ』(2014)を題材にしながら、「消費社会」について考えてみたいと思います。

『ピザ』あらすじ

スラム街に住む兄弟は、母と祖母との四人暮らし。父は刑務所にいて収入源がないので、学校にも行かず、毎日石炭を拾ってそれを換金して、どうにか暮らしています。家は貧しいですが、それでも明るく元気に毎日を過ごしています。ある日、母親が支給品として持ち帰ってきたテレビに兄弟は大興奮。外に遊びにも行かず、テレビを夢中になって見ていると、そこに流れてきたのはピザのCM。それは最近になって近所に新しく店をオープンしたピザ・スポットのCMでした。画面越しにも風味が漂ってきそうなピザという食べ物に兄弟は一気に虜になってしまいます。なんとしてでもあのピザを食べてやる! そう決意した兄弟は他人の石炭を盗むなどの不正を働いて、どうにかピザ代の300ルピーを貯めます。これでピザが食える! 意気揚々とピザ・スポットに向かう兄弟でしたが、なんと警備員にスラムの子どもによる冷やかしだと思われ、追い返されてしまいます。彼らはボロボロの服を着ていて一目でスラム出身であることが分かるような身なりです。しかし少年たちはそれでもへこたれず、だったら今度は服を買うぞと、またいかがわしい金儲けに精を出し、イケてる服を買うために市街地へと繰り出します。ピザへの執念たるや、凄まじい! 新しい服に着替えた少年たちは、今度こそ絶対にピザが食えるぞと、またピザ・スポットへ向かいます。しかしさきほどの警備員は兄弟たちの顔を覚えていて、またしても追い払おうとします。そこに店前の騒動に気づいた経営陣のひとりがやってきて、あろうことか純粋にピザが食べたいだけの兄弟の兄の方をビンタで張り倒してしまう。はたして兄弟は、無事にピザを食べることができるのでしょうか。

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高度経済成長

敗戦の焼け野原からスタートした日本の戦後は、奇跡とも言えるほどの経済成長を遂げました。まず朝鮮戦争による朝鮮特需を背景にした神武景気。このときの『経済白書』にある「もはや戦後ではない」という言葉は有名ですよね。その次は岩戸景気。このときは、池田勇人首相(当時)が「所得倍増計画」を打ち出します。そして1964年のオリンピック景気があり、その後のいざなぎ景気で、日本はGNPで西ドイツを抜いて世界第二位の経済大国となりました。戦後のこの躍進を高度経済成長と呼びます。日本の奇跡的な戦後復興は世界の注目を浴びました。たとえば1979年にはハーバード大学のエズラ・ヴォーゲルは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を書いています。ものすごくざっくり言うと、日本はアジアの後進国だと思っていたが、今や世界第二位の経済大国だ、これは日本人の勤勉さの現れだ、日本はもはや敗戦した弱小国ではない、日本こそナンバーワンなのだ、という本です。かつての敵国人からの日本礼讃は日本国民を慰めるものであるのと同時に、日本人としての誇りと自信を持たせてくれるものでもありました。しかし90年代初頭にバブルが崩壊し、永遠に続くかと思われた高度経済成長もついにストップ。日本経済は不景気に突入し、経済成長の実感がない「ゼロ成長」の時代に入りました。この低成長時代をなんとか乗り切るために日経連(日本経営者団体連盟)は「新時代の『日本的経営』」という報告書を発表しました。俗に「95年レポート」とも呼ばれるこの報告書は、もはや高度成長の要因とされた終身雇用や年功序列がもはや維持不可能であることを示すもので、今後の日本経済は雇用の流動化(つまり、低賃金で簡単に解雇できる労働者を増やす)をすべきだと訴えるものでした。以降、日本では非正規雇用という労働形態が拡大しました。現在では、日本の労働人口の約4割が非正規雇用の労働者です。しかしそれでも経済は成長せず、今では一人あたりのGDPでは韓国に抜かれ、その他の東南アジアの諸国に追いつかれるのも時間の問題だと言われています。国内を見渡せば、深刻な格差社会やワーキングプア、子供たちの貧困といった社会問題が山積しています。あの輝いていた日本経済はどこにいってしまったのか。そんな喪失感を表す言葉が「失われた20年」です。

フォーディズムからポスト・フォーディズム

日本の高度成長を支えていたものは大量生産体制でした。この体制をフォーディズム(米国フォード自動車に由来)と呼ぶこともあります。フォーディム体制の特徴は、規格にあった商品をとにかく大量に生産するというものでした。商品を大量に生産し利益を上げる、これがフォーディムです。とはいえ商品を大量に生産しても、それが売れなければ当然利益にはなりません。つまり商品が大量に売れるためには多くの人々に買ってもらわねばなりません。そのためには労働者を低賃金で働かせるのは実はフォーディズム体制にとっては自殺行為なわけです。なぜなら労働者もまた消費者でもあるからです。消費をする労働者が貧しいままだと商品を大量に生産しても意味がない。そこで資本家は労働者の賃金をアップすることで労働者の消費の自由度を高めるわけです。こうやって大量生産大量消費体制が整っていきます。日本の場合でいえば、1950年後半の白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの「三種の神器」や、1960年代のカラーテレビ、クーラー、自動車の3Cが、大量生産大量消費体制の高度経済成長を象徴する製品です。ものが大量に作られ、人々がたくさん購入し、そして給料はどんどん上がる。こうやって日本は豊かになった!

しかし、このフォーディム体制はやがて行き詰まります。永遠に続くかに思えた高度経済成長は終焉を迎えたのです。ではフォーディム体制はどうして行き詰まったのでしょうか。それは消費が飽和したからです。さきほど例に挙げた三種の神器や3Cを思い出してください。これらに共通するのは耐久消費財であることです。もちろん故障はありますし、いずれガタが来ますが、そう何回も買い換えるものではありません。戦後の日本というのは、人々がこうした耐久消費財を一斉に買い揃える時期だといえます。言い換えれば、このような生活必需品が国内にくまなく供給されていくという特殊な状況の上に高度経済成長は成り立っていたわけです。ですので生活必需品が国内に一通り浸透したとき、消費は飽和を迎えるわけです。

なおここは余談ですが、経済学ではどうも消費飽和説はトンデモのようです。たとえば盛山和夫の『経済成長は不可能なのか』の第二章「『失われた20年』の要因論争」では、消費飽和説をそれを唱えるものの想像力の欠如を示すものでしかないと言い、この消費飽和説を「基本的に無視する」(50頁)と言っています。この箇所を読んだとき、私は驚きました。なぜなら消費飽和説は常識だと思っていたからです。消費飽和説に反論する盛山氏への私の反論は、こちらをお読みください。。

記号的消費

さて耐久消費財がひととおり出揃ったところで、大量生産大量消費体制(フォーディズム体制)は終焉を迎えました。もはや大量に生産しても、消費をしてくれる大衆はいなくなったのです。しかし資本主義というのは実に巧妙です。画一的な規格製品の大量生産で利益を設けていた資本主義は、そのシステムがうまくいかないと分かるや、個人の趣向に即した多様な商品の供給へとシフトチェンジして、生き残りを図ります。たとえば現在では同じ耐久消費財でも、かつてとは比べ物にならないくらいにさまざまな性能を備えた家電製品で溢れています。商品の売れ行きは、既存製品とは違う様々なサービスをどれだけ付加できるかということに関わってきます。つまり他製品との差異が何よりも重要になってくる。そしてその差異は広告によって本質化されます。ポスト・フォーディズム期においては、広告の役割が非常に重要になってくるのです。ここで押さえておきたのは、ポスト・フォーディズムにおける消費は、広告によって消費者の欲求を喚起することで成り立つということです。例えば次の引用文を読んでみましょう。2013年同志社大学・現代文からの出題です。

消費者のなかで欲望が自由に決定されるなどとはだれも信じていない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望を作り出す。(略)私の「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって作り出されているかもしれない。

國分功一朗『暇と退屈の倫理学』朝日新聞社

私は、よくファーストフードで昼食を摂ることがあるのですが、「新商品」とか「冬季限定」という宣伝文句に非常に弱いです。本当は普通のハンバーガーでいいやと思って買いに来てるのに、こうした宣言文句を見ることで、「ああ、俺が食いたいのはそれだ!」となってしまう。程度の差はあれ、誰でも似たような経験はあるのではないでしょうか。ここでは私の欲望が完全に供給サイドに牛耳られています。『ピザ』の兄弟がピザを食べたいという欲求が生じたのも、テレビのCMを見たことがきっかけでした。ポスト・ファーディズムにおいては広告こそ主人公なのです。しかしこうした消費のあり方はどこかむなしいものがあります。それはまるで私たちが広告の僕(しもべ)であるかのような感覚を抱くからです。言い換えれば私たちは実体としての商品よりも商品の広告性の方を消費している。新機種が出るたびにスマホを買い替えたり、流行のファッションを絶えず追いかける消費の在り方は広告消費社会の歯車でしかない。評論文の世界では「中身がない」という意味で記号という言葉がよく使われますが、ポスト・フォーディズムの消費は記号の消費なのです。次の引用文を読んでみましょう。2016年早稲田大学・法学部・現代文からの出題です。

商品は記号体系を構成するだけであり、商品の現実的な実体や特性はもはや存在しない。消費社会は自動的に、現実を参照することのない記号体系のなかで、新たな商品記号を生み続ける。消費者が消費するのは、現実からかけ離れた記号にすぎないのである。

荻野昌弘『開発空間における暴力』新曜社

さて気になる映画『ピザ』の結末ですが、次のような展開を見せます。ピザ・スポットの経営陣のひとりが兄の方に暴力を振るったわけですが、たまたまその暴行シーンを同じスラムに住む友人が撮影していました(テレビすらないスラムに住む子供でもスマホは持っているところが、まさにインド的です)。この暴行動画が放送局に手に渡り、ピザ・スポットは炎上。ピザ・スポットの社長は渦中の兄弟を探し出し、正式にピザ・スポットに招待することで事態の幕引きを図ります。まあ何はともあれ、兄弟はついにピザに辿り着けたわけです。目の前には出来立てホヤホヤのピザが用意されていました。さっそくピザにがぶりついた兄弟ですが、彼らの感想が非常に面白い。「たいして旨くないな」。これは子どもの純粋な感覚によって発せられた言葉だからこそ、記号を食べ続ける現代の消費文化に痛棒を食らわせているのです。(終わり)

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