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「ピアノの補欠」

小学校の時、音楽の先生が私につけていたあだ名である。一人しか必要のないピアノ伴奏の補欠。要するに「いらない」ということだ。これは私を傷つけるというより、カースト上位の子を手なずけるためには「いじってもいいやつ」を挨拶代わりにボカッとやることで「私あなたたちの味方です」とアピールするのが一番早いことを知っている人間の立ち回りである。だからこそ今でも、不定期に思い出しては普通に傷つくことになるのだ。

いじめっ子たちというのは、学年が上がるにつれて狡猾になっていく。陰で煽るだけ煽って、いざ問題になると「自分はやっていない」としらをきるし、煽ったことを問い詰められても「冗談のつもりだった」で片づけてしまう。その子たちが煽るのは、理由はどうあれ自分の立ち位置の不安定さを自覚している子たちであり、その揺さぶりは時として教師すら堕とす。そしていざとなったらまた「自分はやっていない」「冗談のつもりだった」で、実行犯として咎められている連中を切り捨て、自分たちは逃げ切るのだからタチが悪い。この時切り捨てられた子たちの中でも、いじめっ子たちに従うことでしか生きていけないタイプの子が、グループ復帰に必要な大将首を狙ってこちらに突撃してくるのをかわすまでがいじめの後日談だと言って、どれだけの人に通じるのだろう。いや、通じる通じないではなく、こういう物事や感情があるということだけ、自分の言葉で残せればそれでいいのかもしれない。ほら、説明に困るというより、説明できない話ってあるだろ、エヴァみたいにさ(そこかよ)

そんなことを、灼熱の連休のど真ん中に開催された、FEST VAINQUEURのライブ帰りにふと思った。関西弁の世界はどこか英語と似ていて、言う言わない以前の問題で、何かしらアクションを起こせば誰かが拾ってくれるような謎の安心感がある。「なんとか言ったらどうだゴラァ」という言葉に何かを言うと相手はさらに燃えあがるし、何も言わなければ耐える時間がただ増えてしまう。でもそこに「ボケる」という第三の選択肢が見えるだけで、救われる世界ってあるんだろうな。例えば、自分の心とかさ。

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