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人生の始まりは小さな橋と日本一汚い川だった

私の横浜に関する最初の記憶は、海でもなく、船でもなく、川だ。幼稚園の先生が迎えに来る橋のたもとに「ここは歌川広重の『東海道五十三次』のモデルになった橋なんですよ」という、申し訳程度のパネルが設置されていたのだけれど、それを見て「昔の人もこうやってこの橋を渡ったのかな」と勝手に想像をめぐらせていた。正確には「この川にかけられていた橋をモデルに歌川広重が『東海道五十三次』を描きました。橋そのものは現存していないけれど、この橋が名前だけ受け継いでいます」なのだけど、五歳児にとって細かいことはどうでもよかった。気の合わない通園班の面々(with親)があいさつ代わりに開催する悪口大会から気をそらすために、何度も何度もそのパネルを読み返していただけだったから。パネルは悪口言わないし。

さてこの川、亡き母方の祖父(大正生まれ)が子供のころは普通に泳げたというけれど、母(ポスト団塊世代)が生まれたころには、上流の捺染工場の排水がそのまま川に流されていたため、その日染めた布の色で、川の色が毎日変わっていたという。さすがに私が物心ついたころにはそんなことはなかったけれど、深い緑を通り越して顔色の悪いバブルスライムと形容される水を毎日海へと注ぎ続けていた。単純に汚いだけなら害はない。しかしこの川、台風のたびにド派手に氾濫しては、汚い水と同時にもっと汚い土を残していくのである。そしてその泥と形容していいのかもわからない何かを撤去するのが大人にとっても重労働なので、親戚や友人の家が浸水したと聞いても、軽い気持ちでお見舞いにはいけない。だからこそ軽い調子で「お見舞いにも助けにもいかない、お前みたいに情がないやつの家こそ流されちまえばいいんだよ」と言ってきた当時の担任には怒りを覚えるし、だいたい団地の7階まで水が来たらそれは立派な日本沈没だよ!と、時折ツッコミが空を切る。

地元エリアを離れて四半世紀がたつ。今でも「横浜は好きだけど地元は嫌い」を貫いているし、それを変えるつもりもない。実際この川についても、子供のころ過ごしたエリアの景色より、地域で一番大きな駅の前を流れている景色のほうが日常になってしまったから「相変わらずきったねーなこの川」と改めて話題にすることもなく。事実を並べるだけで笑いが取れない真実は、見なかったことにして言及しないのが礼儀というものだ。これは川に限らず人間関係全般においてそうだと思っている。

3年ほど前、好きなバンドのドラマーさん(横浜出身)がボーカルさん(福島県出身)に「ベイスターズが優勝したらこの川に飛び込むの?」と言われて、川の水の汚さを理由に丁重にお断りしていた姿を見て、思わず吹き出してしまった。あまりにも当たり前すぎてガン無視していたこの川のスタンダードを、きれいなおにいさんが大真面目かつ生真面目に最短ルートで説明している姿が、何とも言えず微笑ましかったのだけれど、極論どれだけ地元の話題を避けようとしたところで、この川は横浜駅は永久に工事中とか、Xのアルバムは20年たっても制作中とか、Waiveは永遠に解散中と同列の話で「そういうもの」として私の世界に存在している。みなとみらいのビルや、元町や中華街の街並み、山下公園と海、横浜スタジアムの歓声、それも横浜。だけど、地元を流れていた汚い川も、東海道五十三次のパネルも、そらで歌えるけれど歌詞の意味を知らない横浜市歌も、平日のお昼にテレビをつけるとやっている「猫のひたいほどワイド」も、なんなら「文豪ストレイドッグス」や「金色のコルダ」も、私にとっての横浜なのだ。大きな街だから、生活しているエリアが違えば見える景色も違うだろうし、そもそも自分の心と、自分がその時置かれている環境次第で、目に映る景色も、そこから感じるものも、いくらだって変わるのではないだろうか。少なくとも私は、自分の好きをきちんと持つことができたら、人生の解像度が上がったと言い切れる。

とはいえ、どれだけ頑張ってもあの川を綺麗だと思うことはないだろうし、いじめっ子たちや先生を許す気にはなれないので、何事にも限度はあることを踏まえたうえで、無理せず前に進んでいきたいなと思う今日この頃。だてに「背水の陣って排水溝より汚い川に落ちたくないから前に進むしかないって意味じゃないよな?」と、ネタにしながら生きてきたわけじゃないんだぜ。

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