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(無)責任の所在。

学校や塾で教えている「先生」という立場の人が不祥事を起こすと、わかりやすくこの記事へのアクセスが増えるので、やっぱり子供の頃に先生と合わずに苦労した人って、一定数いるんだなと。

実は、この先生というのは小学校中学年のときに担任だった人の話で、この人の場合は、まだこうやって憤りを文章にできるだけ、感情の発散方法があった。でも、この人のあとに担任になった「奴」の話に関しては、意図的に避けるというより、そもそも誰かに話そうという気になれない。本当に悲しいことほど、うまく説明できないというより、ガンジーも助走つけて殴るレベルを通り越して、明石家さんまもリアクションに困って絶句するレベルの話をポップに話せるわけがあるか、というのが本音だ。

「奴」が教壇と言われるところに立っていたのは覚えている。だけど何かを指導したり、何かを教えたり、そういう姿を見たことがない。あいつは本当に存在していたのかと疑いたくなるレベルだけれど、存在していなかった人間に、殴られたり蹴られたりすることはないから、きっといた。ちなみに、怒鳴られた記憶はないけど、わめかれた記憶は大量に残っている。私が同級生にいじめられて不登校になっても、解決する以前の問題で関心すらないようだった。当時を知っている友人に久しぶりに会ったとき「お前さ、先生のかわりに地蔵置いておいたほうがまだましだったっていうけど、地蔵じゃ川に投げ込むのに罪悪感があるから、せめて居酒屋のタヌキかカーネルさんの人形にしとけ」「ファービー人形があいつみたいだって、お前の気持ちも言いたいこともよくわかる。だけどわかるだけにファービーがかわいそうだ」と、これ以上なにも言うなという空気を出されたという事実だけで、いろいろ察していただきたい。

それにしても、地元市教委に訴え出て、責任の所在について二年ほどすったもんだを繰り返したけれど、「どうもあやまったほうがいいらしい」ということをこの人に気づかせるのに三か月「どうやらなんか責任は取ったほうがいいらしい」と思わせるのにさらに三か月「責任は取ります。でも責任の取り方はこれから考えます」と言い放つまでにさらに三か月かかった。あれから二十年以上たつけれど、いまだに正式な謝罪は受けていない。そもそも「あやまったほうがいいらしい」から一年半かかってやっと出た言葉が「おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。けいこさん、ごめんね」というどこが謝罪やねんという言葉だったことにも呆れるけれど、奴はいじめグループのリーダーに「大事な話があるのでみんなを集めて」と連絡をして、いじめグループの幹部連中とその取り巻きしかいない場所で「先生のせいでこんなことになってごめんなさい」と泣きわめいたそうだ。しかも公園のど真ん中で。その場に居合わせた友人から「この人何言ってるんだろうって、みんなさめてたし、わりと本気で困ってた」「ほかに公園使ってる人もいるのに何やってんだと思ったし、普通に迷惑」と、もっともでしかない報告を受けたのだけれど、悪知恵と圧力を駆使して、大人も子供も学校も平気で手玉に取るいじめっ子連中が、唯一困惑したのがこのどあほうを前にしたときだということに、いまだに苦笑いしかできない。

そして、奴は筋金入りの無関心と積極的な無気力、そして底なしの無責任でできていた。一応、担任の先生という立場なので、教室内で何かが起こった場合、望む望まないにかかわらず「一定の責任」や「問題解決に手を貸す義務」というものは存在するはずだ。でも、教室にいるすべての人間が本能的にわかっていたし、一定数の親御さんも気づいていたのだろう。こいつは目の前で起こったすべてのことに対して自分からなにかをすることは一切ないと。真面目な子は、子供だけでは判断がつかない問題に助言を求めた結果、何もしてもらえないどころか突き放されて終わる。媚びるタイプの子は、その結果として必要以上にベタベタされ、面倒になってくる。口のうまい子は、うまいことを言った結果、こいつに忖度しないほうが事がうまく進むことを知る。みんな道は違えど「こいつを関わらせるとろくなことにならない」という真実にはたどり着いているので、賢明な判断として問題が発生していることを言わない。そして事の元凶である奴から「なんで早く言わないんだ!」と、授業時間をつぶして延々とお経のように抑揚のない説教を聞く羽目になるのだ。そして、問題はそのままで遺恨だけが残る。

そして奴は、自分の代わりに問題を「なんとかしてくれそうな人」をわかりやすく贔屓する傾向があった。その人がなんとかしてくれたら、オールオッケー。だけどその人がなんとかしてくれなかった場合、全責任を相手にひっかぶせてどこまでもねちっこく当たり散らす。気が済んだら、また次の「なんとかしてくれそうな人」を見つけて、また贔屓を始める。それ結果的に何にもならないし、誰も幸せになってないだろうと思うけれど、結局自分が無責任でいるためには方法を問わないというのが無責任の無責任たる所以なのだ。

「無」とは「ゼロ」とイコールである。責任の所在を求めても、無責任の中に「無」がある以上、ゼロが入る掛け算と同じで、すべてがゼロになってしまう。いじめを学校に訴えたときも、市教委に訴えたときも、結局奴の無責任との折り合いをどこでつけるかというところで、関わったすべての人間(本人以外)が疲弊していくのをまざまざと見せつけられた。しかも二度も。結局、関わらないほうが身のためだという判断で、最後の話し合いが終わった後、家族で地元を離れて、もう二十年近くになる。SNSはおろか、インターネットも普及していない時代だったので、関係者と連絡を絶つのは簡単だった。とはいえ、関係者と縁が切れたぐらいで吹っ切れるほどの心の痛みではなかったので、立ち直るのにほんの少し時間がかかったことも否定できない。けれど、一応今を楽しく生きているので、それはそれでいいのかなと思えている自分を、ほんの少しだけ誇りに思えるようにはなった。ただ、関わった人間を許す気は一生ないし、奴が間にはさまるとすべての人間関係がピリピリすることを差し置いても、人を傷つけていい理由にはならないという、それ以上でもそれ以下でもない話だ。

まあ何が言いたいかというと、関ジャニ∞の無責任ヒーローは全然無責任じゃないよね?と。ああいう愛すべき無責任なら、大歓迎なんですけどね。ああ、今日も元気に心が痛い、それでも私は生きている。

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