「あったら便利はなくても平気」と「なくてもいいけどあったら嬉しいもの」
便利グッズの購入を提案する主人公・源に対し、知恩さんがたしなめる言葉。我が家には遺物となった便利グッズが各所に隠されているからとても耳が痛い。自分のことは棚に上げて考えてみれば大概のものはなくても平気だ。キッチンの便利グッズから始まり、運動器具や多機能なお掃除グッズ。なかったらなかったで他でうまくやりくりできるものばかりが頭に浮かぶ。
“便利”とは少し違うけれども「なくてもいい」とされるものは多い。コロナ禍で見かけた「こんな時に“芸術”より大切なものがあるだろう」という発言や少し前にSNSで騒がれた「古典なんて社会に出たあと何に使うんだ。必要ないだろう」という発信。僕の草木染めもそうなのではないかと思ったりする。そう考えてみると世界はなくても平気なものに溢れ回っている。ブームになった断捨離やミニマリストはこの世界の回転への逆風として今も吹き続けている。
どこからが必要で、どこからがなくても平気なのか。それはそれぞれにラインを引く場所が違うので一概には言えない。ただ僕がものづくりをするにあたって大切にしている言葉がある。
「なくてもいいけど、あったら嬉しい」
草木で染めてある必要はない。同じ色を出せるなら化学染料で事足りるだろう。色落ちも少ないし、素材も選ばない。ただ草木で染めてあるということがなんだか嬉しい。これは草木染めに限らず、手作りのものにはすべて言えるのではないだろうか。手編みのマフラー、木彫りの人形、拾ってきた石や木の実で作るモジュール。素材を選んだり、集めたり、それを紡いで作られる作品をもらったとき、身に着けたとき、工場製品からは感じられない多幸感がそこには詰まっている“気がする”
人間関係においても「いなくてもいいけど、いてくれたら嬉しい」という形が理想だと思う。僕は高校生のころから「常備薬のような存在」を理想像として生きている。普段、健康な時には忘れられている。あってもなくてもいい。怪我をしなければマキロンはいらないし、お腹が痛くないのなら梅肉エキスはいらない。でもいざという時のために、家にあってくれると嬉しい。病院ほどの機能はないけれど、あるというだけで安心ができる。そんな常備薬のような人間関係を構築していくことが社会を気楽にするような“気がする”
“気がする”だけと言ったらそれまでではあるけれども、その“気”が感じられることが人生を豊かにするヒントなのではないだろうかと思っている。それは実在しなくても存在しているものだから。「実在と存在」これは僕の人生のテーマの一つでもある。
学生の時分に研究していた「天狗」。天狗の研究をしているというとまず尋ねられるのが「妖怪って居るの?」だった。その意質問に対していつもこんな話をしていた。
この話の中で好きな子は試合会場に居たのか、居なかったのか。これが実在と存在、妖怪の魅力に尽きると思っている。実在はしていなかったとしても、それを信じて入れない山があったり、空間に向かって豆を蒔いたり。確かにそこに妖怪はいるのだ。
話を戻す。自分で作ること、作ったものをもらうこと、自然から素材を得ること、そこに実物以外の何かが実在しているわけではない。しかし確実にそこには何かが存在している。実在だけでなく存在にも目を向けることが大切だ。ただ怖いのは「存在」にばかり目を向けると「実在」と乖離していってしまうことにある。見に見えないものを信じていった先で宗教ビジネスに巻き込まれたり、マルチ商法が夢を餌にしているのは典型だと思う。だからこそ結局いつものようにバランスにたどりつく。存在を感じられるからと言って誰かが“気“を込めた水を高額で販売するのは違うと思うし、手書きの手紙を無意味だと言い切る人間ではありたくない。実在と存在は常に隣り合わせであり、実在から存在を感じ、存在から実在を得る。中途半端かもしれないけれども精神世界と物質世界の狭間を漂うような生き方ができればいいのだと思う。
これからも「あったら便利はなくても平気」を教訓にしながら
「なくてもいいけど、あったら嬉しい」を目指していきたい。