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上手く生きることの対価に感受性を失った

私は今、ふつうにOLをして暮らしている。多少変わっているところがあるところも含めて普通である。

ふと、少女期に引きこもり生活をしていたときのことがふと頭をよぎる。そもそも学校に行っているときは教室のすべてから疎外されていると感じていたが、学校にいくことができなくなってからは、社会の標準から疎外されていると感じるようになった。社会から取りこぼされたような気持ちになったものだった。

しかし、不登校/引きこもりをするということはさらに難しいことだった。ひとりでいると、わたししか話し相手がいないわけだから、自意識が自然と肥大してくる。自分の存在価値や過去の出来事、将来への不安ばかり見つめるものだから、自分のシッポを食べてしまう蛇のようであったし、自分の中にある暗い感情については「深淵を見つめるとき深淵もまたお前を見つめているのだ」というニーチェの格言のように、その暗い感情に魅入られたような気持ちになるものだった。

一方、あのころはいわば表皮がはげて、自分の肉をそのまま外にさらしていたような状況だったからか、物事に対してもっと敏感であったと思う。思い切って外に出たとき、街の人々の生む雑談や、足音、クラクションの音が自分に迫ってくるように感じたし、視線や、ネオンライトが、自分を突き刺すように感じた。

この感覚は、苦境を紛らわすための防衛機制的な副作用だったのかもしれないが、うつくしいものにも心を動かすことができるという効果もあった。わたしの部屋から見えるステンドグラスの光のゆらめきや、差してくる陽のあたたかさ、空の色、雲の形、すべてを鮮明に感じたし、文章の一節に感動したり、ドキュメンタリー作品の登場人物の悲痛な表情に、強い胸の痛みを感じたりするような、感受性が自分には確かにあった。

あれほどに敏感であったなら、きっとうまく生きていくことはできないけれど、いま表皮どころかかさぶたでぶあつくなったような私の肌は、いろんなことへの感性を失ってしまったような気もする。うまく生きていけるようになるということは、感じなくなる/感じられなくなることなのかもしれないし、その逆でもあると思う(にわとりたまごだと思う)。

もうあれほど感受性が強くなることは、生活が安定した私にはしばらくないだろうし、また今の安定した心持ちを手放してまで、その感受性を取り戻そうと思えなくなったほど、私は歳をとった。せめてものなぐさめだが、あの時抱いた強い感情は、時折日記を読むように思い出して、さまざまな状況におかれた他者への、よりきめやかな想像力を持つための糧にしたいと思う。


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