【掌編】匂町

 その町は香りによって構成されていた。
 人々は自分の職業やステータスに合った香水を付けて暮らし、また香水の持つイメージに行動や感情を決められていた。
 この町では香水は上流階級や洒落者だけの物ではない。あらゆる人のための香水があった。
 労働者にも労働者のための香水があった。勤労者として遮二無二働くための香水。それは働くことの価値と喜びと生産性をより高めるフレグランスだ。
 そんな労働者を率いるリーダーのための香水もあり、またリーダーの補佐をするための香水もある。
 職級だけではなく、業種によっても細かく分かれている。兵士には兵士のための香りがあった。職人には職人のための香りがあった。織物工場のための香水。缶詰工場のための香水。家具工場のための香水。鉄工所のための香水。印刷所のための香水。それぞれの職種とそれぞれの職級に応じた香りがある。当然、官吏や商会、銀行員のための香りもある。
 職種はおろか、店舗や内部の部署ごとにもそれぞれは細かくカスタマイズされており、一つとして同じ香りはない。彼らは身につけるフレグランスによって、仕事の質と量を高め、その独自性を強め、仕事仲間と社会との絆を深める。
 もちろん政治家や議員のための香水もあり、中でも町長にのみ付けることを許される香水は、この町のフレグランスの一つの頂点である。
 その『首長香水』を手にするために政治家は野心を燃やし、それを一度我が物としたならば、今度はその香気に相応しくあるために、更なる野心を燃え立たせるのである。
 フレグランスによって、この町は発展を続けている。それを支えているのが調香師達である。
 高度な技術を持つ調香師たちは、更なる特権階級である。
 そもそも、この町の発展の秘訣である香水技術、『産業香水』や『政体芳香』などの『社会フレグランス』は、かつて存在していた一人の天才調香師の手により創造された。
 彼の作った理論によって、この町の独自の芳香システムが確立されたのだ。彼の知識と技術を独占することで、調香師ギルドはこの町の権力を握り続けている。
 調香師ギルドへの加入を望む者は多いが、特別な才能を要求される狭き門である。しかし、天才の残した社会芳香理論の精髄と、調香の奥義を知るためには、ギルドに入り、幹部を目指すしかない。
 この町に初めてやって来た者は、あらゆる町角に立ち込める、噎せ返るような芳香のごった煮に面食らうだろう。
「一つ一つは良い匂いだとしても、全てが混じればそれは下水と同じ匂いがする」と、余所者は言う。
「田舎者には、精巧な時計のように複雑に組み立てられた我が町の芳香を理解できないのだ」と、町の人間はそれを嘲笑う。
 かつて天才調香師の目指したものは、政体や産業や文化ごとの独自の芳香が有機的に組み合わさって、町全体として、唯一無二の薫蕕を立てるようになることだったという。その理想に現在の我らはどれだけ近付けているのだろうか。
 この町のどこを歩いても、薔薇油、麝香、霊猫香、スズラン、ジャスミン、ヘリオトロープ、海狸香、ミルラ、パチュリ、伽羅乳香、バニラ、ナツメグ、竜涎香、シダー、シナモン、イランイラン、栴檀、鶏舌香、沈水香、丁子香、安息香、甘松、鶏舌、薄荷、白檀、沈水香、蘭奢待、百合、シトラス、マンダリンなどの匂いがする。
 この町では乞食にすら乞食のための香水が用意されている。罪人にも罪人のための香水がある。
 もし、この町の芳香の構成から一時的にでも逃がれたいのなら、それには調香師になるしかない。調香師だけがフレグランスをつけないことを許されている。香りを作るためには、特定の香りを纏うわけにはいかないからだ。
 かの天才の残した最終奥義、調香師ギルドの頂点においてのみ知ることのできるそれは、無臭をもたらす香水の調合法であるともいう。


(記: 2022-03-18)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?