【掌編】不快な伴侶

 笑っているときでも、どこか怯えているような顔をする。その癖、私と付かず離れずの場所にいるのだ。手を伸ばせば伸ばした分だけ後ずさる。
 私は自分の夫のそういうところが堪らなく嫌になっていた。
 私のほうが気が強く、彼は私の顔色を伺うようなところがあるのは、結婚の前から気付いていた。でも、それは気遣ってくれているのであり、優しさなのだと考えていた。そのうちに気安く、心の置ける間柄になるだろうと思っていた。
 しかし、彼はいつまでたっても態度が変らなかった。いや寧ろ悪くなっていた。私に対して下手に出るような態度であり、心を開こうとしない。私の話にはいつも頷くが、意見をすることはない。そして私におもねって軋るような声で笑う。
 私達の間には子供がいるが、子供と父親との関係は良好のようだ。彼が私と相対するときにある卑屈さは子供に対してはなく、優しく、思いやりと理解にあふれ、必要とあれば果断にもふるまう。理想的な父親であると言っていい。子供も彼を信頼しているようだ。
 私の両親もそうだ。申し分のない婿であり、誠実な人間として、夫を受け入れている。
「お前にはもったいないくらいのいい男だ」
 そう彼らは言う。
 夫自身の家族も夫との関係は良好であり、夫の友人たちも少ないながらも、厚い信頼で結ばれているようだ。
 私の友人たちも、私の夫のことを誉める。あんなに良い配偶者はそうはいないという。
 それなのに私に対してだけ、夫のふるまいは違うのだ。
 上目使いに寄ってきて、変に甲高い声で、順番も整理せずに話しかけ、話がまとまらないまま、最後には軋るような声で笑う。
 しししししししししししししししししししししししししし、と嗤う。
 私と二人でいるときには、夫はいつもこのようだった。
 子供が高校生くらいまで大きくなった頃、私はついに耐え切れなくなり、離婚を言い出した。こんな、臆病さに狂った鼠のような男を常に視界の端に置いて生活することに耐えられなくなったのだ。
「お母さんは、お父さんのことを何にも判っていないよ」
 子供は私をそう責めたが、判っていないのはお前の方だ。夫と一番長くともにいるのは私だ。
「考え直したほうがいい」
 私の親も友人も口を揃えてそう言った。
 夫に過失はまるでなく、私にもはっきりと言える理由はない。あえて言うなら生理的嫌悪に耐えられなかったということだが、その嫌悪感を共有できる人はいなくて、誰もが夫のことを優しく穏やかで、控えめだが頼りになる人であると思っている。子供も私を非難したが、私が彼の父親を「一方的に」嫌っていることを知っていたので、離婚には賛成していた。子供は夫についていくと言う。
 離婚は速やかに成立した。夫と子供は出ていった。私は家に一人残された。寂しいし、取り返しのつかないことをしてしまったと思っていたが、後悔はなかった。もし、あと数ヶ月でも夫と同居を続けていたら、私はきっと暴力沙汰を起こしていただろう。すでに私は、ゴキブリのように見つけ次第叩き潰したくなるほどの嫌悪感を夫に抱くようになっていた。仮にも人一人にこんな気持ちを持つことになるとは、自分でも信じられないほどだ。
 しししししししししししししししししししししししししし。
 しかし、夫は出ていかなかった。私は自分の目を疑った。朝の食卓で、いつものように夫の席に夫が座っていた。おどおどした顔で引き攣った表情を浮かべていた。しかし、その形はどことなく朧げだった。
 ブヨブヨして向う側が透けて見える。それは毎朝夫がふるまっていた行動をなぞり、家の玄関まで動いていって、そのまま卑屈な上目使いで私を見ながら「イッテキマス」と言って、家を出ていった。
 これは何なのか。私がこれまで見ていたのは夫ではなく、夫と重なって見えていたのはあのブヨブヨしたものだったのか。私は本物の夫を直接見たことがなく、彼にかぶさっていた不快さのヴェールのようなものを見ていたのか。あれは私にだけ見えていたのか。私は夫に重なって存在していたあれと暮らし、あれと寝ていたというのか。虫のように嫌悪していたのはあれで、それを知らずに離婚までしてしまったのか。そして、夫も子供も出ていったのに、あの不快なブヨブヨだけが家に残っているというのか。
 朝出かけていったあれは、夜帰ってくるのだろう。私はあれとこれから二人きりで、この家で生きていくのか。私がこの家を出ても、あれは私の後を付いてくるような気がする。
 予想通り夕方になるとそれは帰ってきた。
「タダイマ」
 私の顔色を伺い、怒りを買わないようと、姑息な気遣いが透けて見える。私のことを恐れているが、私を敬うわけではなく、内心私を小馬鹿にして適当にあしらおうというその魂胆が透けて見える。
 グレーの半透明なそれは私の顔を見て、軋るような声で嗤った。
 しししししししししししししししししししししししししし。

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