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【掌編】思考停止懲役刑

思考停止懲役刑は自我を停止させた懲役である。

受刑者の脳に埋め込まれたインプラントが前頭葉の活動を抑制する。受刑者は自己意識をなくし、外部からの指示の通りに作業を行う。思考停止下にあって作業訓練を受け、技術を獲得できたら、引き続き思考停止のままその労務をこなす。

作業中の受刑者のストレスはゼロであり、刑務官の手間も大幅に削減される。

思考停止懲役刑が導入されたとき、二つの観点から議論があった。これは人権侵害ではないかという点と、これは果たして刑になっているのかという点である。

重度犯罪者の脳にインプラントを埋め込むことは既に行われていた。その機能を用いて肉体の自由を制限することも実際に行われていた。その運用は厳格で、無用な苦痛を与えないこと、長期的な肉体的・精神的問題を生じさせないことなどが守られていなければならない。

しかし、思考について同様の人為的制限を強要することが、刑の範囲を越えた過度の人権の制限に当たるのではないか、という懸念があった。国会や民間でも議論が重ねられ、最終的には「思考を改変ではなく、一時停止させる限りにおいては、必要以上の人権侵害には当たらない」という解釈のもと、導入が実現している。

そして、もう一つは、そもそも思考していない存在に対する刑は、刑として意味があるのか、という議論である。自我がない状態で懲役を受けても何の反省も生まれないのではないか?

これにはまだコンセンサスはない。ただ実際に受刑者自身の多くが思考停止刑を望んでいるという事実がある。

思考停止刑は通常の懲役よりも長期に渡る場合が多いが、それでも意識をなくしている間に「お勤め」が終わっている方がいいという者は多いのだ。そして、受刑後に何の記憶もないのに、肉体は経過した刑期の分老いぼれていることに気付き、ときとして愕然とする。

この刑の残酷さは体験してみないと判らない。

思考停止懲役刑は時間を奪われるという罰の形をより純粋にしたものだという解釈もある。自分の命、人生の時間を他者に削り取られるという罰だ。

思考停止懲役刑の経験者によれば、人生がまさしく夢のように過ぎていったのだと言う。

酔生夢死。収監されて思考停止を受け、延々と懲役労働に従事する。食事や運動や睡眠もすべて刑務官の指示に無心で従う。だから健康管理は保証されている。インプラントの保守のために、定期的に思考停止は解かれるが、そのときはまるでテレビでカメラが切り替わるように視界が切り替わっていくようだという。カチリ、カチリと視界が何度か切り替わり、何度目かの切り替わりで刑期は終わっている。

労務中の記憶はほとんどない。まるでないわけではなく、例えば作業で使うのと同じような長机に座ると、そのときの作業内容がフラッシュバックすることがあるという。自分がどのように手を動かしていたか、という漠然とした肉体記憶が蘇える。しかし、それも他人の夢の話のようで現実感はまるでない。

思考停止中の作業は一般に高度なものとなる。

思考停止下では、自由思考というノイズのないせいか、集中力が持続し、動作が正確で精緻なものになる。だから、単純作業をやらせるよりも、素質があるものはどんどん高度な作業をまかせていく。

通常の懲役によって生産されたものとは一線を画した出来の、美術館レベルの工芸品が作られることもざらである。多くの賞を得ることも頻繁にある。

思考停止下でプログラム開発の教育を受け、高スキルのプログラマになったものもいる。彼女の開発したライブラリは現在多くの製品で採用され、他では替えの効かないものだという評価を受けている。

思考停止者には創造性などないと思われていたが、実際にはそれぞれの分野の中で、驚くばかりの独創性が発揮されているのだ。

ある受刑者に絵の描き方の基本を訓練して、絵画を制作させたところ、何作か仕上げているうちにどんどんと技量を上げて、驚くべき技巧と完成度と芸術性を持った作品を制作するようになった。彼の作品は刑務所の外のコンクールに出品されて次々と賞を採り、絶賛された。今では彼の作品は億を越える金額で取り引きされるものもある。

それを描いた男はコンビニ強盗の常習者で、粗暴で暗愚、もちろん芸術に対する何の素養もなかった。

しかし、思考停止刑期中に彼は巨匠となった。

研ぎ澄まされた精神性と猛々しいばかりの批評性、それをゆるく包み込むユーモア。人による好みはあれど、誰の目にもこれが世界でもトップレベルの芸術家の手によるものだと判る。受刑者の本来の人格と、思考停止下での作品から伺える人格は乖離も甚しい。

こうなると、果たして思考停止懲役中の受刑者というのは、何者なのかという疑問も出てくる。

我々は自発的な意志を無効化した空虚なロボトミーを作ったつもりであるが、実際には沈思黙考する求道者を作ってしまったのではないか。自我というのは何かの真髄を極める上ではノイズでしかなくて、それをなくして初めて見出せる人間精神の本質というものがあるのではないか。

それとも、やはり思考停止者は心のない案山子に過ぎず、我々は象の描いた絵に芸術を見出して感心するような間抜けに過ぎないのだろうか。

巨匠である男は刑期を終えて、思考停止を解除された。絵のことを刑吏から説明されたが、何のことかも判っていないようだった。ただ、瞬く間にすっかり老人となった我が身を見て泣いた。

受刑者が制作した作品の売却による利益は国庫に納められる。その男には懲役による通常の賃金だけが渡された。

出所後、耳聡い画商がやって来て、男に絵を描かせようといろいろ試みたが、結局は失敗した。自我のある彼は筆の持ち方すら知らないようだった。

画商に見放され、他に頼れる身寄りもなく、手持ちの金も尽きた。冬になってどうしようもなくなった男は、またコンビニ強盗を行い、すぐに捕まった。再犯を重ねているため情状酌量も執行猶予もなく、男はまた思考停止懲役刑を求刑され、控訴もせずにそれを受け入れた。

巨匠が帰ってくるのだ。


(記: 2022-03-09)

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