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コーンフラワー・ブルー

 指輪をなくしたことに気付いたのは、結婚からそれほど時間が経っていない頃だった。
 夫からもらった婚約指輪は深い青の色石がついていた。コーンフラワーの色だ。
 それなりに高価なものだったという。それなのに、すぐになくしてしまって、真っ青になった。
 盛装のための品で、普段身につけてはいないし、その頃、使ったことはないはずだ。盗まれたのかも知れないと思ったが、同じ宝石箱に入れていた他のアクセサリーはなくなってはいなかった。その指輪よりも高価なものもあったから、それだけ選んで盗んでいったというのも考え難い。
 多分家の中でなくしたのだ。私は家中を探し廻った。家の中だけではなく、庭も隈無く探した。いかにも落としてしまいそうなところも、ここには絶対に来なかっただろうと思えるようなところも全部。しかし、指輪は見付からなかった。
 紛失に気付いてから、しばらく探し廻り、ついにあきらめて私は夫に打ち明けた。
 夫は私の不注意を少し腐したが、さほど怒るでもなかった。夫はそれどころか、新しい指輪を買おうか、とまで言ってくれた。大らかで優しい人だった。それはあまりにも申し訳ないので固辞したが。それからも折に触れて、あの指輪を探した。宝石箱のあの指輪を納めていた場所は、いつ見付かってもいいように、いつも空けておいた。
 そうしているうちに、数年が経ち、数十年が経ち、子供が産まれ、子供が育ち、我々も齢を取り、子供が巣立ち、また夫と二人になった。
 そして、またしばらくして夫は死んだ。私は私の家で一人になった。
 人一人にこの家は広いので、引越そうと思い、家財を片付けた。ほとんどのものは処分することになるだろう。
 私は引越しの片付けの中で、あの指輪が見付かるのではないかと少し期待していた。
 もう、何十年も前のこと。身に着けたのは数えるほど。しかし、あの強い青、コーンフラワー・ブルーは心に焼き付く。
 でも、やっぱり見付からなかった。本当にどこに行ってしまったのだろう。あんな小さなものなのだから、どこにでも紛れてしまうだろう。気付かずにゴミと一緒に捨ててしまったりしたのだろう。

 ところで、家族と暮らしたこの家にはずっと幽霊がいた。私だけがそれを見た。この幽霊ともお別れだ。
 白いドレスを着た女の人だ。私がこの家に来たときと、まるで変らない姿だ。最初のうちは私と同じくらいの年格好だと思ったのに、今では私だけが老婆になった。
 この幽霊は夜だけでなく、昼にも出る。家の廊下を歩いていたり、庭を散策するのをよく見た。私がいるのと同じ部屋に入ってきて、私のすることをじっと見ていることもあった。
 最初から不思議と恐くなかった。驚かされることはあったが、それだけだ。何も喋らないし、危害を加えられたこともない。恨みや怒りを抱いているという感じはなくて、むしろ無邪気で無辜で、澄んだ印象だった。この世の悲しさを何も知らないで死んだ人みたいだった。
 本当に幽霊なのかなんて勿論判らない。私の幻覚かも知れない。でも、気にしていなかった。慣れてしまえば、猫みたいなものだ。
 この幽霊は引越す私について来るのだろうか。多分そうではないだろうな。彼女はこの家に居着いたまま、次の住人を待つのだろう。

 本当を言うと、私のなくした指輪は、ずっと彼女が着けていた。なくしてしばらくして、それに気付いた。
 よく観察したから、確かに私のものだと判る。白い幽霊の指に光るコーンフラワー・ブルー。とても似合っていた。
 幽霊が私の指輪を取ってしまったのだろうか? 幽霊から物を取り返すことなんてできるのだろうか? 何度か話しかけてお願いしてみたものの、彼女は首を傾げ、何のことか判っていないようだった。手を伸ばして、彼女の嵌めている指輪に触れようとしたが、私の手は宙を切った。
 彼女が身に着けた途端に実体はなくなったのか。いや、これは私の物なのか? 私の指輪はやはりどこかに落としてしまって、この幽霊はどういう理屈か、それと同じものを作り出したということなのだろうか? 私の指輪は何処かで壊れて死んでしまい、指輪の幽霊になって、今は彼女の指に嵌っているとか? 幽霊に何ができるかなんて誰に判るだろうか?
 しかし、私は彼女が何か悪いことをする人には見えなかったから、私のものを盗んだりはしないだろうと思った。どちらにせよ、幽霊の持ち物は彼岸の彼方にある。私の指輪と同じであっても、私が手に出来るものではない。
 だから、私は実体の指輪がどこかにあるのではないかと、ずっと探していたのだ。探し物をする私をときどき覗き込んで見てくる幽霊、その指に光る指輪を横目で見ながら。そういう日々も終わるのだ。
 そういえば、若い頃は、(生前の)幽霊と夫の間に何かあったのかもと思ったこともあった。あの指輪を盗ったのは彼女の嫉妬の証なのだ。そんなことを考えたこともあったが、罪のなさそうな彼女の姿を見ては、それを打ち消した。
 確かに幽霊はときどき私の夫の方を見ていることがあったが、その表情には何の色もなかった。もちろん夫は幽霊に見られていることなど気付かない。それでも、幽霊と夫との間には何か縁があるのではないかという考えはずっと頭の中にあった。
 でも、それが事実とどうして判ろうか。そして、それがそうだとしてどうだというのか。彼女は彼岸の人なのだ。
 そんなことを考え続けてきたせいだろうか、かえって私達の結婚生活は円満だった。
 私のこれまでの人生の小さくない部分は、なくした婚約指輪を探すことと、その指輪をしている幽霊と一緒にいることだった。
 引越しの日、私は庭から私のことを見ている幽霊に向けて手を振った。
「ばいばい」
 幽霊も何となく手を振り返してくれる。その指にはやはり私の物と同じ指輪があった。彼女の瞳の色も、それとよく似たコーンフラワー・ブルーだ。


(記: 2022-04-06)

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