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地下鉄

 乗っている地下鉄の車両が、駅の間で停車した。
 朝のラッシュの最中であればよくあることだが、もう夜もだいぶ遅くなってのことだから少し珍しい。運行上の何かトラブルがあったのかも知れない。そのうちに車内アナウンスで説明があるだろうと思った。大したことではないだろう。
 しかし、いつまでもアナウンスはなかった。車内はかなり空いている。この車両には私一人しかいないくらいだ。だから、途中で止まってしまったことに騒ぐ人も、不審がる人もいない。私は読んでいた本にまた目を落とした。
 しかし、また目を上げた。どこか奇妙なところがあった。何だろうか。そうだ。窓の外の風景だ。暗過ぎた。地下鉄の中なのだから風景が見れるわけではない。だが、トンネルの壁くらいはみえる。車内の照明に照らされて剥き出しのコンクリートの壁面が見えるものだ。それがなかった。地下鉄のトンネルは普通は車両のサイズにピッタリくらいで作るものだろう。光が届かないほどのトンネルの幅は広いということはないはずだ。しかし、私の座る席の向こうの窓はまっくらだ。
 外にすぐ見えるはずの構造物はなく、ただ暗い鏡になって私の姿を写している。私は身をねじって背中側にあった窓に顔を近付けた。闇だ。何も見えない。車両の外は闇が広がっていた。本来すぐ外に見えるはずのトンネルの壁が見えない。目を凝らしても、車内照明が届く限りに何もないようなのだ。
 私は窓を開けてみることにした。空調の効いた車内で窓を開けようなどと思ったことはなかったので、どう開けるものなのかと一瞬迷ったが、最上部の持ち手で下に下ろせばいいらしい。ガラス窓が開き、外の空気が流れ込んできた。どこかで嗅いだことのあるような、外国旅行を思い出させるような匂いだった。
 窓を開けた先の視界には何も見えなかった。暗過ぎて何も見えない。視線の先には何の壁もなく、それまま数メートル、数十メートル、ひょっとするともっと先までも何もない空間が広がっているようだった。辺りを見渡しても何もない。ただ、中から光を漏らす地下鉄の車両があるばかりだった。蛇行していて最後尾の車両まで見えた。おかしい。トンネルの中にいるのであれば、蛇行した先の車両など見えないはずだ。
 この地下鉄の車両はトンネルの中ではなく、巨大な空間の中にいるようだった。地下にある巨大な空間、光もない、どこまで広がっているのか判らない広さ。ここはいったいどこなのだろう。毎日使っている地下鉄の路線の中でこんなところがあるなんて気付いていなかった。いや、東京の地下鉄の中にこんなに巨大な空隙があるとはとても思えない。
 何か異常なことが起きているのではないかと感じだ。車内を見渡したが、このことに気付いている人はいないようだった。いや、最初からこの車両には私しかいない。ここから見える他の車両にもぽつりぽつりと人の姿は見えるが、このことに気付いた様子はないように思える。
 やがて車両はゆっくりと動き出した。しかし、外を眺めていても、いつまでもコンクリートの壁面は見えず、暗いどこまで広がっているのか判らない空間の中を、車両は進んでいくのだった。


(記: 2021-10-08)

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