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何故花を買うのか

 母は何でもない日に花を買ってくる人だった。家族の誕生日や、お祝い事のためでもなく、ただ花屋さんで花を買ってくるのだった。
 一輪の薔薇、カーネーションの花束、ストック、ラナンキュルス。
 日々のことなのでそんなに大きな花束ではないのだけれど、時々はまるで開店祝か、と思うほどの花束を抱えて帰ってきた。
 生け花を習っていたわけでもない。ただ買ってきて、いつも同じ花瓶に挿して、しおれるまでその辺に飾っておくだけだった。
 小さいときには、花はきれいなので、ただ嬉しかった。
 しかし、母の習慣に父はあまりいい顔をしていなかったと思う。花は安いものではないし、日常的に買うものではない、それは散財だと思っていたのだろう。
 母は多分何も考えていなかった。特別懇意の花屋があるわけでもなく、安く手に入れられるように、花屋と親しくなってみるような工夫をしたりすることもなかった。出先で花屋が目に入ると、ふらふらと入っていって、気に入ったものがあれば数本買う。新しい品種や色を見れば、それを買う。
 家に戻ればその扱いはわりとぞんざいだ。ときどきは花瓶に差すことも忘れたり、買い過ぎて花瓶がなくなって、流しの洗い桶に突っ込んでいることもあった。夜家に帰ってきた父がそれを見て、ムッとした顔をしていたことが何度もある。父は母が花を好きだというわけでもないのに、だらだらと理由もなく買い続けているという意味のなさが嫌だったのだろう。
 いや、母は花が好きだったのか。店頭で衝動買いを続けていたようだが、持ち帰った花に見惚れたり、愛着を示すようなことを私達家族に見せることはなかった。適当に花瓶の水を替えて、萎れるまで放っておいた。そして萎れたら生ゴミとして出した。母が何を考えていたのかは判らない。

 ただ、私がここで話したいのは、母が一度だけ買ってきたことのある、ある花のことだ。それは黒薔薇だった。私はいくつのときだったろうか。小学生に上ったばかりくらいか。その日母が持ってきたのは、真っ黒な薔薇だった。それまで母の花放蕩によって薔薇はたくさん見てきていたが、黒薔薇というのは初めてだった。
 何故か私はその薔薇を一目見て泣き出した。
「どうしたの」
 母が慌てて私に問いかけた。
「どこか痛いの?」
 私はかぶりを振った。その花だ。その花を見ると私は悲しくなる、いや悲しいのとは違うのかも知れないが、胸の奥で何かがグルグル回るのだ。
 ただ子供のことで、泣いているうちに泣いていること自体に夢中になって、その理由は次第にどこかに行ってしまう。母にあやされてソファに寝かされて、しばらくして私は落ち着いた。
 特に問題はないと思った母が家事に戻ると、私はそっと起き上がって、リビングの花瓶に投げ込まれた黒薔薇を見た。
 真近で眺める。何て不思議な花なんだろう。花なのに真っ黒だなんて。夜や墨、押し入れの中が花になったみたいだ。
 しかし、よくよく見れば、その薔薇の花弁の色は黒だけでできているわけではなかった。黒の上に赤やピンク、青や緑が浮いていた。見る角度によって、それは動き、煌めいて、少し色合いを変えた。遠くから見ればそんな多彩さは消えてしまい、ただ銀の鍍金にように光を返した。不思議な花だった。
 さっき泣き出したことも忘れて、私はその花を夢中になって覗き込んだ。見下し、見上げ、窓の近くに持っていったりして、花の色が変るのを確認した。花は私が見るたびに、色を僅かに変えるようだった。一度見た色とまったく同じ色は浮かべなかった。私は母が不思議だった。こんな面白いものを自分で買ってきておいて、でも、私みたいに夢中にならないなんて。
 そっと一枚花びらを抜いてみた。その前に少しためらいはあった。花びらを一枚持っていけたなら、いつもその一枚を持って歩けたら、どんなに素敵だろうか。でも、花から花びらを取ってしまったら、その花びらは死んでしまうかも知れない。こんなすごい色彩の変化を見せてくれないかも知れない。
 でも、結局は一枚取ってみた。黒い薔薇の花びら。私のてのひらの上にあっても、その上に渦巻く仄かだが色彩豊かな色の洪水は変ることがなかった。でも、少しばかり色の変化は褪せても見えた。
 私は後悔して、花びらを花に戻そうとした。勿論一度抜いた花びらが元に戻せるわけもなく、花びらは再び花から外れてテーブルの上に落ちた。
「薔薇は棘があるから、触っては駄目よ」
 母が言う。
「おかあさん、この花すごいよ。すごいきれいなの。色がピカピカしているの」
「そう、よかったね」
 私はこの花の特別な美しさを全然説明できていない! そう思って、私はその薔薇の挿してある花瓶を持って、母に付きまとった。
「ねえねえおかあさん、すごいんだよ、これ見てよ」
「そうね。あとでね」
 母は家事に夢中でこちらを見ようともしなかった。

 その後のことは記憶から消えている。ぶつ切りのエピソードで、その前後に何があったのか、まるで覚えていない。実のところ、実際にあった記憶なのかも判らない。母にそれとなく尋ねても、何も覚えていなかった。
 母ほどではないが、私も花を買うようになっている。父も、母ほど節度のない買い方ではないせいか、私の買った花だと判れば嫌な顔はしない。まあ、単に娘に甘いだけか。
 あのときの黒薔薇にまた会えないだろうかと思って花屋を覗く。あるいはあれは、私が花を買う理由付けのために、私の無意識が過去を捏造して作った花なのかも知れない。母にも同じようなことがあったのかも知れない。


(記: 2021-04-07)

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