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リサイクルの身体

この感覚知ってる。
秒針の音が聞こえて、
川の音、夏の虫の音が聞こえる。
おじいちゃんの寝息が聞こえて、
懐かしい匂いがする。
おばあちゃんの笑い声が聞こえる。
思い出と喧騒が耳に迫ってくる。
いつかと同じ天井を見ていた。
ぐるぐると行ったり来たりして探していた。
気がつくと時間の感覚がなくなって、自分って誰だっけとふと思って、ようやく今にたどり着いた。
88歳になって痩せ細った祖父と一緒にうとうとしていた。

先日、半年ぶりに死に触れた。
9年間実家で生きていた猫が亡くなった。
悪性の腫瘍で余命3ヶ月と宣告されたが1ヶ月半だった。いかにも猫っぽい性格で、気持ちよさそうに撫でられていると思えばいきなり怒ったり、知らない人が来ると隠れてしまったり、それでも気分でぐるぐると喉を震わせて甘えて来たりもした。

悲しいけれど、心から愛した存在の死というものはとても貴重な経験だと思う。

東京で暮らしていると死は身近にはほとんどない。

初めて死に触れたと思ったのは中学二年生の時。父方の祖父が亡くなった時だった。

死の瞬間に立ち会っていなかったからか、事実を告げられただけでは実感が湧かなかった。

初めてお通夜で祖父の顔に触れた時のあの冷たい感覚が忘れられない。死に触れたと思った。

そこでようやくおじいちゃんは死んだんだと解って涙が止まらなくなった。

家主のいない家、身体、物質、分子、原子。
これはおじいちゃんだけど、もうおじいちゃんじゃない。自分の知っているおじいちゃんはもういない。

亡くなってしまった猫を撫でながら思い出していた。

これからも沢山の死を経験していくことになる。
最終的に自分の死を経験する。
自分が死ぬなんてたぶん最初は誰も思っていない。自分と同じく永遠だと思っていた身近な人の死に触れて人は自分の死を覚悟していく。

新しい身体、さあこれかさらだという命があって、枯れていく身体、尽きていく命があって、全部巡り巡って循環して、自分の中に尽きていった沢山の命のかけらがあって、自分の身体もまた次の命になっていく。

だから身体は自分だけの身体ではない。
沢山の命のリサイクル。
魂を震わせる為に無理をすることもあるだろうけど大切にして欲しいし、大切にして生きたい。

死に物狂いで働く時もあるかもしれないけど、愛する人たちとの限られた時間を大切にしていきたい。

人も土地も水も、動物も植物も空も星も、誰のものでもない。

人は弱い生き物だけど、何にも執着せず、来るもの拒まず去るものを追わず、沢山失敗して変化を受け入れて、魂を成長させて凛として生きていくべきだと教えられた気がしました。

りんありがとう。

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