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窓際のおっさん41 会社に逆らうとしたら基準はどこからか?(5/5)まとめ 個人の人生を守りたい 自分なりの基準を意識して人間関係を強く生きる

 前回までの4回で、会社に逆らうとしたら基準はどこか、線引きの大事さと、その基準について、法というよりも感覚的な部分でのおっさんの持論を述べた。

 今回はまとめとして、4回までの内容を総括するとともに、会社や人に振り回されるばかりではなく、自分の人生を大事にしてほしい旨の意見を述べたい。

※ 正直過去イチで読みづらい連載であったと思うが、あえて駆け抜ける。自己満足なので反省はしていない。

<個人は弱いので、線引きを意識して自我を保つべし>


 述べてきたように、会社にせよ人にせよ、線引きを行う事が大事である。それをいつまでたっても分からない人は結局自分の人生がうまくいかないだけではなく、
続く後輩や次の世代へ、同じ悲劇を繰り返す人になってしまう可能性が高いように思う。

 組織にいれば、組織の意向に従うのはある面では当然であり、また、地位役職があってそれに伴う命令系統に従うのもまた、合理性や秩序の面から言って、正しくはある。

 しかし言うまでもないが、その前提だけで全て考えようとすること、或いはその前提を全ての根拠として服従を強制してくることは間違いである。

 一方で、問題者のぶつけてくる強い感情に負けたり、周囲の複数人に「我慢するように」と説得されると、その間違いを犯してしまう程、人間一個人というものは弱いものであると思う。
 
 だからこそ「人や組織との間に線を引くこと」「線を引く基準を意識しておくこと」これを行う事が大事なのではないだろうか。

<圧力に負けると、ややもすると被害者と加害者が逆転する>


 例で紹介した「問題職員T」との問題を振り返ると、上司は繰り返し

「うまくやって」
「あくまで仕事だからちゃんとやって欲しい」
「歩み寄って欲しい」
「考えて欲しい」
など。。。

 ややもすると、おっさんの側にも不足や誤りがあって改善すべきであると思い込ませる、洗脳的な言葉をおっさんにかけ続けている。
 一方的で悲惨な状況でも「部下」がこのような言葉を「上司」に言われると、一方的な被害者であったはずがいつの間にか

「こちらも悪かったかな」
「もうちょっと自重すべきだったかな」
「気にしすぎかな」

と、過剰な自責思考に追い詰められてしまうのではないだろうか。

 この国での個人のいざこざは、一般的に喧嘩両成敗、必ず双方に非があるとジャッジされる風潮もある。故に概ね自責思考で居れば嫌われないが、明らかに問題者が悪くても、上司にここまで言わている状況が周囲に伝わるなどした場合、被害者が被害を訴えるとむしろ、我儘を言っているようにも見えてしまう。

<基準を作って態度を明確にし、自衛を、そして責任者や問題者に逃げを許すな>


 そして問題者の横暴の方はと言うと、今日もまた放置されて、無制限に許されているという現状がよくある。
 末端の被害者個人を犠牲にしつづけて。。。

 おっさんが今回、会社に逆らう「基準」と題して論考を書きまとめたのは、こうした個人のいざこざが、個人の人生に大きく影を落としているにも拘らず、あくまで個人どうしの関係ということで、基準によらず、曖昧に、いい加減に、権力者の都合の良いように片付けられがちである現状を嘆かわしく思うからである。

 世の中に基準が無いから誰がどこまで悪くて、どこまで責任を取ればいいのか判断できない。となれば。。。
「理不尽だろうけど、そこは君一人の胸にとどめてうまくやっておくんなさい」
 と一方的に結論づけられて、洗脳を施され、突き放されてしまう。

 そんな逃げを、問題者にも、責任者にも、許してはならないだろう。

<会社と人間の関係だけではない>


 サラリーマンは、会社で過ごす時間が大半であると思うので、先ずは会社組織内での秩序を良くするに越したことはない。
 だが、当然人間関係は会社だけにはとどまらない。

 一番身近な家族や、今後は個人の時代になっていくことで逆に、今までの時代と異なる集団や人と交わる可能性や、誰も見ていないところ、所謂「社会の闇」や「無法地帯」での一方的な関係性も、これからは増えてくるように思う。

 今回のはあくまで自論・私見による「基準」ではあるが、客観的な判断基準にせよ、自分自身の芯としてにせよ、不確実な時代になってくるほど、基準への意識は大事であるようにも思う。

 家族については、現代社会では既にかなり崩壊が進んでいる。

 新しく家庭と呼べるものは何かを定義するのは難しいぐらい、個人の関係は多様化している。こうした拠り所が無い時代においては、線を引く以前に、線の両端に当たる点すらもはっきりしなくなったように思える。

 少々脱線したが、今回紹介した「会社に逆らうとしたら」という過程に基づいた基準設定などは、自分の芯を組み立て、難しい時代においても、確かな関係を築くヒントになるように思う。

 と、少し風呂敷を広げて、妄想と共に持論の有用性を主張したわけだが、かくも本稿がなにかの役に立てば幸いである。

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