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彷徨うおっさん72 移ろいゆく幸福観(2/6) 例えば水の中にいて渇を叫けぶが如しなり

 前回は、物質的豊かさによる幸福の追求は限界を迎えているかもしれないと仮定し、おっさんが最初に就職した会社での、社長や幹部たちの欲望丸出しの演説や態度、平社員の不当利用というあさましい有様を紹介した。
 また、それでも企業運営にはこうした欲望が欠かせないことも述べた。

 今回はその続きとして、資本主義経済で右肩上がりの時代を生き、そうした企業運営を是として邁進してきた世代について、おっさんが思う傾向を、有名な法話の言葉に例えつつ述べていきたい。

<あらゆる場所が経済戦争に呑み込まれている 続き>


 何度も言うが金銭的収支を気にすることは、良し悪しの問題で簡単に割り切れないのだが、その価値観に社会が覆われていると、寺社も経営目線を欠かすことが出来なくなってくる。
 寺院の施設や文化伝統行事すら利活用し、ドローンやら座禅会やら、あの手この手で集客を行い、一般の企業同様に、際限なく欲望を拡大させる道に邁進するしか、生き残る道がないように思う。

 これでは煩悩を捨て去るどころではなく、むしろ湧き上がる煩悩を次々と火にくべて、黒々とした煙を晒して経営している状況である。


 繰り返すが、現代では否定は難しい。一方で「そうまでして持続させるべきなのか?」と異を唱える人達の出現も抑えきれない処に来ている。
 神仏など存在しないという合理的な考え方だけではなく。こうした生き方への理想との乖離もまた、宗教離れの加速につながっているようには思う。冷静に見て、なにやら心が暗く乾いていく感覚を無視できない。

<現代は水の中にいて渇を叫けぶが如し>


 現代は豊かな時代になったはずだ。これ以上豊かさを追求すると、例に述べてきたとおり、かえって厳しい現状を生んでしまうように思えてならないのだが。。。

 右肩上がりの時代を駆け抜けた就職氷河期以前の世代からすれば、果実を追い求め、競い合って欲望を追求することが、普通だったかもしれない。しかし現実的に、目に見える果実が取りつくされた今、そこから更なるフロンティアといっても労力の方が遥かに勝る。

 また、旧世代が作り上げた様々なしがらみに対処すべき現実もあり、権力の無い人ほど、具体的な果実取得のための労力の浪費に拍車がかかっている。そして、経済そのものの限界が見えてきている中、そもそも新しい果実の獲得自体が困難である。

 にもかかわらず、金銭的収支を基礎とした、経済活動を皆が皆、過剰に続けなければならず、色々な苦しみが発生している。

 我々にとって、欲望を羅針盤に、果実を求めて歩き続ける生き方は、どうやらとっくに辛くなって行っているのではないか。

 そのことを知ってか知らずか、旧世代は今もその価値観のまま決定権を持っており、明確で分かりやすい果実を欲望に従って追っている。これが少々世代間に摩擦を生じている。

 例えば旧世代の人達は、車や家など、所有して当たり前。お酒や食事も贅沢なものを好むと言う人が比較的多いように思う。
 他にも、服装もアクセサリーもある程度のものでないとみっともないと感じるといったような傾向が、その個人が裕福であるかに関わらず、世代全体として案外大きいように思う。
 おっさんの母親もそうで、別に趣味でも、都会なので必需品でもないくせに、車は2~4年に一度ぐらいで何度も買い替えていた。
 また、一度建てた家を10年程度で取り潰してまで新しい家を建てる強欲ぶりだった(今は一文無しだけど)。

 彼ら世代には物質的な豊かさを、他人と競うようなきらいすらある。現代からすればため息が出るような面倒くささや、みっともなさすら感じる。
 しかし彼らは若い時分から相も変わらず、社会的地位(出世や結婚)や財産の獲得を優先し、それらを得るために働き、競い、生きるのだという価値観が原動力になっているように思う。

 それ故に、現在の若年世代に対して、人生論と抱き合わせで、例えば「金の使い方(投資や資産形成など)を弁えていない」と説教したり、もっとハングリーになれとのたまったりする(全否定はしないけど、あえて贅沢しない、強かにスキルを身に着けるなど、もっとやれることがあるのも確かだと思うのだが)。

正に「水の中にいて渇を叫さけぶが如し」行いである。


 これは白隠禅師の和讃(仏法を日本語にして分かりやすくしたもの)に出てくる言葉で、我々はすでに仏であるのに、そのことに気が付かずにもがくから苦しいのだという話の例えである。

 旧世代は一般的に言って蓄えもあって若年世代よりも裕福である。にも拘わらず、もっと水を持ってこい(果実を追い求めよ)と言う。そして若者に苦い顔をされてしまう。まったくもって無駄に苦しい状況である。

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