窓際のおっさん3 廃れる挨拶スピーチ、テンポとライブ感の近年

会社にいると色々ある。どうにもならない事ばかりで、禄を食むためだけにひたすら受け流して暮らしている。時には反撃してみたり、動き回って相手を撃ち落とすこともあるけれど、会社全体としては何らプラスがない。それでも一筆積み上げれば、誰かの一遇は照らせるかもしれない。そんな想いで今日も筆を取る。

 仕事でもプライベートでも、人前で話す事や、相手に言葉を交えて何かを伝える機会はそれなりにある。一方でスピーチや、その準備のための仕事は、随分と減ったように思う。
 ここで言うスピーチとは、予め内容と構成がガチガチに決まっていて、本番ではほとんど読み合わせで終わる展開のアレである。

 おっさんの話をすると、直近では数年前に一件スピーチ案件の手伝いがあって、挨拶文の添削、予行演習に付き合わされた。発表者曰く、オチや笑いどころまで意識したとのことだったが、申し訳ないが、くだらなかったのを覚えている。

<正になんの意味もないスピーチが礼賛された時代もあった> 


 それは現場技術系の仕事の集まりで、懇親会の開会挨拶、尺は3分程度というものだったのだが。。。
 ①グダグダと会の来歴を語り
 ②挨拶者自身がこの挨拶をすることとなった経緯を冗談まじりに語り
 ③アルコールでハメを外しすぎるなと言う意味を含ませた、労働安全衛生の掛け声「ご安全に」で締める
と言うものであった。15年前なら割とあったが、今時珍しい内容である。

 内容自体利己的でどうでも良く、笑いも寒いが、それ以上にくだらなかったのは、時計でタイムを測らされ、内容のどこを抜く、残すの意見を振られたことだ。
 そもそも「長尺」は言うまでもない。だがそこは黙るしかなく、発表者に忖度して内容を吟味しなくてはならず、おっさんはうんざりした。

これは誰も喜ばない仕事である。
少なくとも人を使ってまでやることではないだろう。

それが分かっている人程、この程度の挨拶なんて一言二言と決めて、
何も用意しないしその場で盛大にトチっても良いとすら思っている。
でも昔はこうした形式が非常に好まれ、
誰がどの順番で何分挨拶するかがヒエラルキーを表す面も持っていた。

また、挨拶以外のスピーチについては、予備原稿のみならず
パワポなどのツールを使った発表が正義だと思われていて、
たかが数分、紙一枚の資料で済むような話をパワポで散々練習させられたり、
「スライドなしの発表なんて寂しいよ君〜」などと言われることもあった。
重くてグダついたものが、なんとなくで評価されていたのである。

<あれから15年ぐらいして、テンポとライブ感が尊ばれるように>


最近は、ファシリテーション技術だとか、アドリブの大事さなども言われており、
準備はせず、その場の状況に対応することが求められているように思う。
さらにその概念を超えて「好かれること」や「意味のあること」が重要になってきている。

好かれるという点では
①形式的挨拶は手短に、会場の状況を見ながら尺は変幻自在
②会場のより多くの人に関係のある(利益のある)会話をする
③当然、資料は少なめに

意味で言えば
①話題の来歴よりビジョン
②寒い自己満の笑いより、交流(情報共有したい他者に場を譲るなど)

総合するとテンポとライブ感ではないだろうか。
「早く終わってくれよ」なんて一瞬でも思わせたら
聴衆には絶対好かれていないし、お互いに無意味な会になる。
常に会場の人のことを考えれば、内容も尺もその場で変えたら良いし、
声がけをしたり、場合によっては他の人に
その場を使ってもらったほうがいい場合も多い。

また、このようなアドリブ的対応には多少のミスや脱線が付き物だが、
聴衆は案外それらに対して寛容か、むしろ歓迎すらしている節がある。
昔の人は内容も尺も、目一杯完璧にしようと張り切っていたのだが、
空回りも甚だしいと言ったところである。

平成初期ぐらいではこの辺りの理屈も理想論ではあったが、
コロナ禍を経て人との接し方や働き方も多少は変わったかな。
共感を得られることが増えたように思う。

小学校の頃の、長〜〜〜い校長先生の話の内容は未だに全く思い出せない、
一方でコンパクトなアドリブ劇ならいくつも思い出せる。

スピーチとはそう言うものが本来であり、良いのではないかと思う。


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