おおつごもりのこぼれ話


十二月三十一日。
前の晩目覚ましのアラームはセットせずに眠り、自然と目が覚めたところで手元の携帯電話を確認すると朝8時だった。
わたしは頭上の積み上げられた本の中から一冊を選び蒲団から出ることは決してせずに土の中で春を待つ幼虫のように丸まりそれを読んだ。

小津夜景『いつかたこぶねになる日』(素粒社)

2022年、わたしが出逢った本の中でもっともうっとりした本だ。(本の刊行は2020年)
この本についてはまたあらためて記したいと思っているのだが、あぁ…この本に出逢えたというだけ2022年を生きてきて良かった…と心から思える一冊であった。小津さんの文体にしばらくうっとりとしたあと、もぞもぞと布団からゾンビのように立ち上がりフラフラとキッチンに行き、雪平に水道水を入れ、湯を沸かす。わが家にはやかんもティファールもないので湯を沸かす時は雪平鍋を使用している。雪平は無敵だ。
一杯あたり19円と書かれたドリップ式の珈琲を乱雑に淹れ、上から牛乳を足す。

嗚呼、美味しい珈琲が飲みたい。

などと思わなくもないが、でもそれはここではなくどこか街角の純喫茶で飲みたいのだ。家で飲む珈琲にこだわりはない。
珈琲(ミルクを足したのでカフェオレか)を飲みながら、今日一日の流れを考える。YouTubeで坂本龍一さんの戦場のメリークリスマスを流す。一生名曲。
昼過ぎまでは部屋でとろとろと過ごし、戦場のメリークリスマスをエンドレス再生しながら今年精一杯の化粧をして家を出る。

年末年始に京都に帰省している心友夫婦から、飼っている猫のお世話を頼まれている。
電車とバスを乗り継いで猫さんの様子を見に行く。駅にはスーツケースを持った人がゴロゴロといた。こういった景色が増えたことがなんとなく嬉しい。心友宅に着くと猫さんは重ねられた布団の上でくつろいでいた。『よ、来たんか』と言った顔をしている。変わらない猫さんの様子に安堵し、わたしは猫さんのくつろぐ布団の山に寄りかかるようにして座り、持ってきていた小津さんの本を開きしばし小津夜景の文体に浸る。

そろそろ時間かな。
猫さんに良いお年を、また明日会いに来るよ。と告げ、バスと電車を乗り継ぎ渋谷に向かう。

今日は、今日という日は、敬愛する又吉さん、ピースの又吉直樹さんの『大晦日の夜』というイベントに参加するのだ。大晦日に又吉さんと過ごせるなんて、こんな幸せなことがあるのか。今年何度目かの生きていてよかった。が身体に沁みわたる。

渋谷についてGoogle mapを開く。目的地までの経路に従って歩く。渋谷は渋谷でもわたしの知らない渋谷だ。静かだ。とても静か。なんだかいい感じ。いい感じだけどやや不安。この道であっているのかな。地図で見るよりも目的地は遠い。誰もいない。だいぶ不安。でも又吉さんが選ぶ場所だから。いや、又吉さんが選んだかどうかはわからない。めっちゃ不安。まぁいい。とにかく向かえ。俺よ。

無事に開場時間に間に合い、又吉さん、ゲストのサルゴリラ児玉さん、トニーフランクさんとのなんともあたたかくやさしいひとときを過ごす。
開演前の事前アンケートでトニーフランクさんに即興で歌って欲しい言葉を送ってください。というものがあった。わたしはかなり悩んだがなるべく他の方とはかぶらないであろう言葉を探し入力した。

プリトヴィッツェ湖群国立公園

まさか採用されるとは思わなかったが、トニーフランクさんがこの言葉を即興曲のテーマに選んでくださった。トニーフランクさんのことを一気に好きになった。明らかに知らない言葉を選ぶのはとても勇気のいることだ。でも敢えてその言葉を選んでくださった。カッコ良すぎるだろ。
プリトヴィッツェ湖群国立公園て…?と児玉さんが会場を見渡したところでわたしは手をあげ、「クロアチアにあるとてもきれいなところです」と説明をした。そしてプリトヴィッツェ湖群国立公園をテーマに又吉さんと児玉さんが即興曲にする歌詞を考えてくださった。
夢か?夢だろよ。夢でもいいだろよ。大晦日の夜、一年の締めくくりに又吉さんがわたしの提案した言葉に文章をつけてくれたんだから。

生きてて、良かった。

余韻、余韻、余韻。

除夜の鐘のように余韻の響きを頭の中で鳴らしながら駅までの道を歩く。ふと一軒のBARが目に止まる。
なんとなくこのまま渋谷から離れるのが名残惜しくなり、BARのドアを引いた。
時間が早かったこともあり、客はわたし一人だった。マスター、といってもかなり若い岡田将生似のバーテンダーさんだった。わたしは又吉さんの朗読会に行ったことを話し、余韻に浸りにきたと伝えた。わたしは終始ニヤニヤしていたと思う。マスターも大晦日一発目の客がわたしのようなニヤニヤした奴で辟易したことであろう。でも大丈夫。このあと店には次々とお客さんがきてマスターも想定外の忙しさとなったから。
一杯目は生ビールを頼んだ。自分の中ではニ杯か三杯までと決めていた。BARで飲むものはだいたい決めている。冒険はしない。二杯目はアードベッグをロックで頼んだ。
三杯目を頼むか、地元に戻って馴染みのBARに寄るか、悩んでいたところでマスターがアードベッグを好むならと、このカクテルをすすめてくれた。

スモーキーオールドファッションド

わたしはカクテルは普段ほとんど飲まない。けれど、来るお客さん来るお客さん、なんだかオシャレなカクテルを注文している。カクテルをつくる所作を見ているだけでワクワクする。BARで冒険はしない。とさっき言ったばかりだけれど、岡田将生似のバーテンダーさんに作ってもらうのも悪くないかもしれない。だって大晦日だもん。今年最後の冒険もいいじゃないか。

「ではそのスモーキーオールドファッションドにチャレンジしてみます」と岡田将生に告げた。

今年最後に覚えた新しい言葉。新しいお酒。
とても美味しかった。

良い一年であった。

「大晦日の夜」でトニーフランクさんが最後に歌ってくださった歌は東京に来て良かった。という歌だった。トニーさん泣いていた。とても素敵だった。トニーさん、又吉さんと出逢えて本当に良かったと思った。
まだまだ余韻に浸りながら地元に戻ってきて、馴染みの店に寄ろうかな…と思っていたが、やめた。今日はこのまま帰ろう。
家で大晦日の夜のアーカイブ配信を見ながらしっぽり年を越そう。
又吉さんのおかげでわたしは毎日を愉しく生きることができています。

新年はまずスモーキーオールドファッションドが出てくる短歌を詠み、スモーキーオールドファッションドが出てくる話を書こう。

そして、2023年もわたしは生きてて良かったと100万回唱えるのだ。