見出し画像

ゲシュタルトの祈り

みんなどうして自分を放っておいてくれないんだろう

私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

私は私。あなたはあなた。・・・

という出だし部分が印象的なゲシュタルトの祈り。その言葉通り、人はお互いにお互いの人生を生きる。だから、本人が望んでいないのに人の人生に入り込んだり、干渉したりしてはならない。
 しかし、世の中これができない人がいかに多いことかと感じている。

静かな支配

 親の問題もそうだ。私は親には育ててもらった感謝の気持ちを抱いている。しかし、だからといって、親に自分の人生に干渉はして欲しくない。
 親は親で幸せに生きていってほしいし、私は私で自分の人生を生きていきたい。私は、そう思っている。
 
 しかし、表立っては干渉したり、人の人生に割って入るようなことをしているようには見えなくても、親の言葉はやはり重い。
 どうしても、その言葉がずっと自分の中に留まり続けるし、親の言葉に従わなかっただけで、何かとても悪いことをしたような気がしてしまう。
 その状況は「静かな支配」とでも言うべきものだ。
 それが、知らず知らずのうちに自分を束縛し、苦しめ、自分の人生に暗い影を投げかけることになる。
 血がつながっていて、長い間共に過ごしたからこそ本音を語れなくなってしまったという事もある。本音を押し殺したまま、うわべだけで接していることに気づく。本音を語れないひとつが、兄弟の関係性だ。

兄弟との確執

 私には妹がいる。しかし、幼い頃は仲良く遊ぶ時もあったが、喧嘩もよくしていた。妹だから、子どもの時は私が親から怒られる様子をじっと見ている。同じ轍は踏まないように(怒られないように)うまく立ち振る舞う。兄の私の失敗を影でずっと見ていて、それを反面教師にしているように、妹は大きな失敗をまったくせずに器用に生きている。まあ、それは兄弟ではよくあることかもしれない。

 しかし、私には妹という存在自体が、やっかいの種になることが多かった。どういうことか。
 それは、妹が喜ぶ様子がうれしくてつい自分を犠牲にするような行動を取ってしまうことだ。例えば、幼少期は兄弟一緒に風呂に入っていて、自分の性器を変にいじりながら妹に見せていた。妹がそれをみてはしゃいで喜んだからだ。
 妹が一緒に風呂に入っていなかったらそういう行動は自分一人ではもちろん取らなかっただろう。
 毎日それをやっていたので、性器を手術しなければならない事態になってしまった。それからはとてもつらい思いをした。手術や病院に通う日々もだし、それ以上にその後の人生において、いじめや嫌がらせを受けるきっかけになったのが一番つらかった。性器の形がみんなと違うこと、そしていじめが引き金となってそれがコンプレックスになり、みんなと風呂に入ることができなくなった。小学校以降、中学、高校と修学旅行などの宿泊を伴う学校行事では、怖くて一度も風呂には入れなかった。また、その入らなかったことを同級生に咎められたりもした。 

 私は妹とか周りの人を喜ばせたりするため、自分を犠牲にしてしまう傾向があった。その時はいいが、後には自分がとてもつらい目に会う羽目になった。

 まあそれでも、兄弟で遊んだ経験はひとつの思い出となり、楽しい子ども時代を過ごせたと思っている。いや、思っていた。
 妹にとっては、子ども時代の思い出全てが、忘れたいものだったと後になって知るまでは・・・。大人になってから、家族が集まった場で、妹は昔の事を忘れたいと言った。それを聞いたとき、悲しいとか寂しいというよりも、ずるいという感情が湧いてきた。
 女性は子どもの時から楽しくなくても取り合えず笑う、というのを聞いたことがある。元々弱い存在だから取り合えず愛想よくしておけば、危害を加えられることはない、という防衛本能からだそうだ。自分の妹もそうだったのか。
 妹が本当は楽しくはなかったというのであれば、私は自分を犠牲にしなくてもよかった。
 私が、のちの人生を犠牲にしてまで妹を喜ばせる必要はなかった。
 大人だったら、自分でやった行動だから責任は自分で取らなければならないと思う。しかし、まだ子供である。子どもに、ふざけてやったことの結果起こる責任までをすべて被せるのは酷だ。
 子どもは、単純に結果なんて考えずにいま楽しい、いま嬉しいと感じることをしてしまうものだ。
 後になってどうこうまで考えて行動を起こす子供がいたら、逆に怖いと思う。

 その妹の言葉を聞いて以来、妹には会うのも嫌になった。

親はそれでも妹(家族)に会えと言ってくる

 そういう私が心に抱えた葛藤を親はまったく知らずに、たびたび妹(とその家族)に会えと言ってくる。恐らく長い間妹と会っていないのを気にかけているのだろう。親は種々の事情を全く知らないため、私が妹とその家族と会うことが、私にとってもプラスになると本気で思っている。(風呂場の件も、親は単に私一人が勝手にやったことだと思っている。)
 それは何の葛藤もない兄弟姉妹であれば、定期的に顔を合わせて意思疎通を図っていくのがお互いにとってwinwinとなることが多いと思う。しかし、私の妹に対する見方はもう変わってしまった。私が、妹と今更わざとらしい関係を築き始めたところで私にとっていいことは一つもない。
 私は、妹は単に会うのがめんどくさいからとか、元々兄弟仲が悪かったとかそういう単純な思いから会わないのではない。
 それは、仮面の下で何をかぶっているか分からない、何か得体のしれない存在と対峙しているようなそんな気分になるからなのかもしれない。または、結局会っても懲りずに自己犠牲の精神が働き妹を喜ばせ、自分だけが辛い目に会うのではないかという恐れからなのかもしれない。ともかく複雑に絡み合った様々な思いが妹と会うことを強烈に拒絶するのだ。
 
 たとえ、こんなに色々な感情を抱きながら家族と会ったとしても、恐らくは表面上笑顔を取り繕って楽しそうに振る舞い、心の中では苦痛の時間を過ごし、あとからドッと疲労感が押し寄せてくることになるだろう。
 かたや妹にとっては、私が無理に嬉しそうな表情を作って楽しそうにふるまうのを見るのがさぞ楽しいことだろう。妹は現在仕事も家庭も何もかもうまくいっていて、充実しているからである。
 人は所詮自分が上手くいって自分に余裕があるから、他人に対しても気を配れるものなのだ。
 本来、家族と会うことに関しては、私が会いたい(会ってもいい)と思えるようになって会えば済むことのはずだ。こんなに精神的に悩んでいて自分が苦しい状況の中で、嫌々あったところで、誰得になるのだろう。
 何も知らずに実家に帰って来いと言ってくる親を考えるたびに、私はこのゲシュタルトの祈りを思い出し、そっとしておいてくれと叫びたくなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?