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仕事ができるひとは、しっかり遊んでいる説は本当か。

「人生をおもしろがって生きているひと」が好きだ。世の中の理不尽や、結果が出るまでの過酷ないきさつを楽しんでいる姿勢。

こうなりたいとも思うし、そういうにんげんを好きだとも思う。そして気づきつつある。noteの公式が「今日のピックアップ」として選んでいる記事は「大まじめにふざけている」記事が多いということに。

ふざけて笑っていたらよい、いうことではない。目の前のことを直視できずに笑いに逃げることを「ただふざけている」とすると、「全力でふざける」とでもいうのだろうか。目を凝らして、受け入れた上で、その状況をウケる!と楽しむ。

そういうひとは、仕事も遊びもおふざけもすべて、全力なイメージがある。仕事はもちろん、くだらないように思えることに対しても、過多な情熱を投下してあそぶ。

遊びも本気なひとが成果が出るのか、成果が出ているから遊びも本気でふざけられるのか。

どちらかというと、すべてに全力な前者が成果を出す気がする。成果が出たら遊びも本気でふざけようというひとは、きっと成果が出るときを待ち続けて終わってしまう。成果が出たらふざけよう。それまでは仕事を本気でやろう、ってね。完全に昔のわたしがこのタイプ。

だから、遊びも全力で、なおかつ成果を出す子を漏らすことなく羨ましいと思ってきた。きっと逆なんだよね。全部ぜんぶおもしろがるから、成果が出るのかもな?と気づきつつある。

そのときは信頼を持つのが難しかったのだと思う。自分への信頼。「真面目にやってないから、成果が出ないんだよ!ちゃんとやれ!」って言われるのがイヤで、せめて真面目であろうとした。ムダに減点されるのを防ぎたかった。

別に成果を出していなくても、わたしの価値は変わらないから大丈夫。そういうふうには、思えていなかった。

つまり極端だけれど「わたしは何もしなくても価値が変わることはない」みたいな自分への信頼があると、ふざけられる。

自分への信頼を持てるのは最終的にはわたしでしかないのだけれど、仲間や実績などに下支えしてくれるものはある。依存するのはよくないけれど、それは大切なこと。

どんなことにもおもしろがって、腹抱えて笑って生きて、結果として成果がついてきたらよいな。

デンマークの王立図書館で、最強に「ふざけた」SixTONESのラジオを聴き、今年1笑いながら、そんなことを思った。

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