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45歳 剣道5段 祖母を見送る

6月に誤嚥性肺炎を引き起こし、東仙台の祖母が入院していました。
6月末の連休を使って、私は仙台までお見舞いに行きました。
東仙台の叔母と二人で現地に向かうと、祖母はスヤスヤと眠っていました。
「ばあちゃん、聞こえるが?」と声を掛けると、パッと目を開けまして周囲を見渡していました。
眼はほとんど見えていなくて、影が横切るように見えてるはずだと、叔母から聞かされます。
でも、耳は普通に聞こえているようで、
「会いたくて来たよ」と言うと、
表情が柔和になり
「わいー ありがと、ありがと」と言ってくれました。
ばっちゃん特有の津軽訛りの「わいー」が聞こえてすごく嬉しくなりました。
入院してすぐの頃は点滴しか受け付けなかったらしいのですが、私が見舞った時は、すりつぶしたペースト状の食べ物も食べていたそうです。
昔から、胃腸が丈夫で食べることが大好きな祖母でしたので、ゆっくりでも快復に向かえるかな、と思っていたのですが、

7月4日、心不全の為、祖母が逝去されました。

叔母はスマホを持っていないので、
母からのLINEで知ったのですが、
「嘘だろ、つい先週会ったばかりなのに」
というのが本音でした。
叔母の話だと、苦しむことなく静かに逝かれたそうです。

95歳の大往生です。

仙台にて家族葬を執り行うということで、
日程を叔母に聞いたら
私の休みと偶然にも重なっていました。
「もしかして、おばあちゃん、呼んでたんじゃないかな」と後で嫁に言われました。
自分でもそう思いました。
朝一の新幹線に飛び乗って、再び仙台へ…。

父と仙台駅のホームで待ち合わせをし、
二人で仙山線に乗り込みます。
国見駅で下車し、そこからはタクシーで斎場へ向かいました。
父と二人で待っていると、
斎場に祖母を乗せた車がやってきました。
母と叔母が先に降り、後から棺に入った祖母が降りてきました。
綺麗な顔をしていました。
昔から「池内淳子」に似ている、と何度も言われたことがあるみたいで
そのことを言うと祖母は、わざと咳払いをして照れ隠しをしていたそうです。
後で母から聞いた話ですが、
自分でも「池内淳子」に似ていると思っていたそうです

誇り高き祖母(笑)…。

眠っているばあちゃんの顔見ていると、
自然と寂しさが溢れ涙が出てきました。
「ばあちゃん、いつも笑ってたから今日は泣かないようにするわ」と
言うと母は「んだんだ、それがいい」と言いました。

祖母は昔から冗談しか言いません。
朝から晩までふざけてばかりいました。
学生時代、たまに東仙台まで顔を出すと、
「おー、来たか、ばっちゃん、嬉しすぎてどってんするじゃ」
帰宅する頃になると
「まだ、来いへ、寂しすぎて涙の連絡船だじゃ」と言いながら
都はるみの歌を歌い出します。

「ばあちゃん、今何時?」
「昨日の今頃」

「ばあちゃん、今日の夜ご飯なに?」
「ネズミのフライ」

結構なNGワードも飛び出す方でした(笑)

また、祖母は煙草とお酒が大好きでした。
私が幼い頃、ばあちゃんの家に行くと、
夜は必ず台所で一人、常夜灯の下で
ウイスキーの水割りとハイライトの煙草で
一人静かに過ごしていました。
オレンジ色の淡い光の下、
紫煙くゆらす ばあちゃんの顔は
今でも鮮明に覚えています。

一番の思い出は幼い頃、添い寝しながらの昔話でしょうか…。
「むがーし、むがし、あったんだど…」と
津軽弁のイントネーションで始まるその先が楽しみでした。
今日は何の話だろう、とウキウキしてきます。
「桃太郎」は少しアレンジされていたように思います(笑)
津軽弁で語る「山姥」にはビビりました。
「三枚のお札」はラストどうなるのか、気になって眠れなかった(笑)
私の感性に色濃く祖母の昔話が影響されていることは確かです。

読経が終わり、荼毘に付された祖母の遺骨を納めました。
皆で東仙台の家に戻り、
お酒の好きだった ばあちゃんの遺影に
グラスビールを供えました。
緊張から解放されたのか、父は飲みたくて仕方なかったようで、
勝手にビールを飲みだします。
「ハッハッハってばっちゃん、笑ってらべなぁ」と父が言います。
母と叔母はちらし寿司を作って遺影の前に供えました。
「喜んで食べでらべなぁ」
「そういえば今日、七夕だねぇ」

祖母に声が届いたのか、
ろうそくの火が大きく揺れたように見えました。
いや、ただの勘違いでしょうか…。

いつか遠い星になってしまうのだから
祖母のように笑って生きていこうと思いました。

和子ばあちゃん、ありがとうございました!

合掌









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