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東仙台の婆ちゃんに会いに行く

仙台の地に赴くのは、7、8年振りです。
前回は家族で行きましたが、今回は私一人だけです。
3月は自分担当の大きな現場が終わるので、春休みもかねて
必ず連休をとるようにしているので、
この機会に仙台に行くことにしました。
別の要件もあったのですが、
それは後日アップします。

今までは何時に東仙台に着くという連絡を祖母に入れると杖をつきながら駅まで迎えにきてくれて、近くのミニストップで買い物をしてから帰るのが通例でしたが、
今は足腰も弱り、ベッドの上だけの生活ですので、そういったことができません。

久方ぶりに東仙台駅に降り立ちました。
電車のドアを自分で開けることを忘れていたので、しばしの沈黙が流れてしまって後続の人に迷惑をかけてしまったかもです。
ごめんなさい。

駅から徒歩5分くらいで祖母と叔母の暮らすマンションがあります。
インターホンを鳴らすと叔母がドアを開けに来ました。
相変わらず元気な叔母の笑顔がありました。
今、食事を作っているところだから、ばっちゃんの顔を見てやって、と。
顔も痩せて小さくなりましたが、
本当に元気そのものです。
目もはっきりとは見えていませんが、
声で誰かわかるそうで自分が来たことを喜んでくれました。
「ばっちゃんは死ぬのを忘れたの」
「死ぬまでは長生きするんだ」
「100歳までは頑張るの」


頭の回転が速く冗談ばかり言ってます
食欲も旺盛です。



祖母は今、95歳。
人工肛門なのでストーマの交換等、
食事の世話は
叔母がすべて面倒を見ています。
24時間の在宅介護です。
叔母は祖母の世話だけでも大変な中、
私の食事も作ってくれていました。
「簡単なものでごめんね」
「マジで気にせんといてくれ、寝床だけあればいいから」

着くや否や、東京土産を手渡して、
仏壇にご挨拶。
祖父の遺影がにっこりと。
祖父は私の高校の先輩になります。
祖父は私が中学2年の秋口に、
くも膜下出血で亡くなりましたので、
高校合格の報告ができませんでした。
もし、その時まで生きていたなら喜んでくれたかなあ。

介護で忙しい叔母に何か手伝うことないか、と聞くと
お前が来たら頼みたいことがあったんだ、と言われました。
キッチンと台所の球替えをしてほしいとのことでした。
小柄な叔母の背丈だと、届かないらしく、自分が丸椅子を借りて
新品の管球と交換してやると、
台所が明るくなり叔母も喜んでいました。
「ばっちゃんの生活リズムが優先になるからね」
「わかってる、むしろ気を使わせてごめん」
叔母は祖母の排出物の処理の際の匂いのことを気にしていたのですが、
私は仕事柄、そういった現場に行っているから大丈夫だ、と言いました。

粛々とごはんを作る叔母

叔母は20時には就寝し、
午前2時半には起きます。
はっきり言って大変です。
来てよかったのかな、とふと思いました。
叔母の仕事増やしてしまったな、と。
叔母の手が空いた時に、
かつて叔母が東京で働いていた時の
話をしてきました。
叔母は昔、日野で暮らしており、
国土庁で秘書の仕事をしていました。
語学も堪能で英語と韓国語がペラペラです。
色々と面白い先生についた時の話や、
東京暮らしも大変だったこと。
楽しそうに昔話をしていた時に、自分が思い切って聞きました。
「今、何かやりたいことある?」
「色々あるけど世話しないといけないからさあ」
自分の時間をここまで犠牲にして、
親の面倒を見てる叔母の労力の前に
自分ごときが物言う立場でない、と思いました。

今度また仙台来た時、トイレと風呂場の換気扇の掃除をするよ、というと
助かるじゃ、と喜んでくれました。
仙台を去る朝方、祖母にお別れの挨拶をしようとしたら
叔母から、帰るって言わないでいいから、
ばっちゃん寂しがるから、と
言われたので朝の挨拶だけして、
そっと部屋を出ました。
叔母にはまた来る約束をしました。
「また、来いへ」と叔母が笑顔で送ってくれました。
今年中にはまた仙台に行ければいいな、と思っています。



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