東京サルベージ【第38回◾️断・捨・離】

 引っ越すことになり、必要に迫られていろいろな物を捨てている。

 まだ使えるし、捨てるには忍びないもののもうとうに役割を終えているもの、そもそも捨てるのが億劫で収納の奥に突っ込んであったものなどを積み上げ、新居に連れていくかどうかの取捨選択を行った。
 中には買ってみたものの、一切読んでいないものや、暫く定期購読してみたものの兎に角積み上げるだけであった書籍など、お金の無駄使いと言われても仕方の無いものがうずたかく積み上げられていた。

 「思い出がつまっているから」と第一次戦力外通告時には妻から守り通した書籍も、引っ越しという濾過装置には勝てず、泣く泣く(これは私にとってはもう役割を終えたのだ)と言いきかし、第二次戦力外通告、第三次戦力外通告と心を鬼にする。私はリストラを言い渡す人事部長のような心持(おそらく想像)になった。
始末に困るのは、買うには買ったが読む時間が無く(と言い訳をして)資料として収集しただけで満足してしまったものなど、私の家の書斎で生殺しにあっていた新品同様の本やCDたちだ。

 また、意外と非常な決断を迫られるのが「愛蔵版」と呼ばれる、通常の単行本よりもやたらとデカい漫画全10何巻だったり、通常は文庫本で買うものの何故か新刊書で買ってしまったものだ。
これらは思い切ってえいやと捨ててしまえばスペースを捻出するという意味では効果が大きいのだが、いかんせん「愛蔵」で買うくらいのだから、好きな作家の好きな作品であるのだ。だからといって読むのかと言われれば10数年読み返したりはしていないのだ。

(これが、トリアージというものか・・・。)

これらは再会したのを機会に気を入れ替えて向かい合ってみるべきものたちだが、何年も存在を忘れていたものに気を惹かれるとも思えず、後ろ髪を惹かれる思いでせめて良き人にめぐり合っておくれとブックオフへと大量に持ち込んだ。
(あー、せめて夕食にうまいものでも食えるくらいの金になってくれやしまいか・・・。)そんな淡い期待は消し飛ぶ査定額に、自分が投下した無駄金を思い慄然とした。

 「2人分のコーヒー代にすら足りなかった・・・」

憔悴しきった顔でスターバックスでうなだれていると、「10%査定額アップ券」を出し忘れたことに気づいた。
 妻にたしなめられると、つい、「前回の店員さんは「10%査定額アップ券」は持っているかと聞いてくれたのに今回は聞いてくれなかった」と、責任を店員(おそらくバイト)に転嫁している自分がいた。無論悪いのは私であり、それを出したところでキャラメルマキアートはおろか2人分のコーヒー代にも足りやしないのだが、無性に悔しい気持ちがした。「おまえの生き方を悔い改めろ!だからおまえはダメなんだ!」と猛省を促されている気がした。
妻のように捨てるという行為にある種のすがすがしさを感じる人種もいる。だが、私には未練の方が先に立ってしまう。捨てるという行為には寂寥感や気まずさがつきまとう。眼が赤くはれて痒いのは、本や雑誌のホコリで目がはれているせいだけではないのだ。
ならばせめて物を買わない暮らしをとも思うのだが、お金を使うということにある種のストレス発散を感じてしまう人間にはどうにも難しいのである。

 お気に入りの蔵書やCDの並んだ姿を眺めるというのは閲兵式に臨んだ将軍のような気持ちにさせてくれる。だが、それらと別れるときは戦場に並んだ墓標の列を眺めているような気持ちにさせるのだ。


取材、執筆のためにつかわせていただきます。