書くという暴力
私は小説を書く。悲劇や喜劇、ただ架空の日常の風景を切り取ったさりげないものである。時折、それを読んでくれた人が作品の感想を伝えてくれる。表現は様々だが概して「心を動かされた」と言う。喜んでくれた、と言い換えたほうが適しているかもしれない。
最初はそれを純粋に喜んでいた。もちろん今だって嬉しい。
その一方で、恐ろしく思っているのもまた事実だ。
程度の差はあれ、他人の心、感情を動かせるだけの小説、文章を書く力が、私にはある。
そして私のように、プロフェッショナルではないにも関わらず小説を書く人は、世の中においては決して多数ではない。
ごく少数の人間だけが持つ特殊な能力。それを私は持っている、ということだ。
私の書く小説は、他者の心、感情を動かす。
けれど、他者の心、感情を動かすような現象を、私たちは暴力と呼ぶのではなかったか。
気づいたところで、書くのを止めるかと問われれば首を振る。書くことは既に私にとって生きることに等しいし(でなければわざわざこのテキストを書いたりもしない)、気づいた程度で止められるなら、はじめから書いていない。
私の手に暴力はある。この先も、生きている限りずっと。