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【無料記事】光る私たちへ


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮沢賢治 『春と修羅』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html

 

 有名なこの一節に、少し前に Twitter(X) で触れた。


あったものが消えたり、なかったものが現れたりしながら世界は回っている。ネットでも現実でも私は辺境にいるけれど、それでもわかる。
ここまで書いて『春と修羅』の序を思い出した。
「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」
午後9:55 · 2024年2月25日

https://twitter.com/KonoseSakuma/status/1761736735673762086


 何かの隠喩というわけではなく、ただ実感を言葉にしたらこうなっただけのことだ。

 他愛ない投稿でも、いったん言及したものはしばらく意識に残っていて、後日ふいにまた浮かび上がってくることがある。

 そういうわけで、今回は宮沢賢治――しかも『春と修羅』について触れる。

「仮定された有機交流電燈」もしくは「因果交流電燈」の正体が何なのか、たくさんの人が研究していることだろう。仮説もおそらく多くある。
 しかし本稿ではそれらを一切参照せず、あくまで筆者の見解のみを記す。

 賢治の生涯を紐解いていると、賢治と決別または死別した人々が必ずと言って良いほど現れる。
 これらの離別は当然賢治の心を傷つけ、その痛みによって生まれた作品が今でも残っている。

 もう会えない人への気持ちをどう整理するか。
 人間の普遍的な問題に、賢治もおそらく直面していた。私たちと同じように。

「仮定された有機交流電燈」もしくは「因果交流電燈」とは、その問いに対して賢治が得たひとつの答えなのではないか、と私は思う。

 生きている/死んでいる、人である/人ではない。
 それらの区分を超えて、あらゆる存在を「仮定された有機交流電燈」もしくは「因果交流電燈」に還元したとき――誤解を承知で言えば「たましい」のレベルで見たとき、一度でもこの地上に存在したことがあるものたちは、みなひとつずつの電燈として見えるのかもしれない。

 燈火が消えるように、自分の前からいなくなっていた人々。大切な彼ら。
 けれどもほんの少し見方を変えれば、彼らは今もそばにいる。
 呼吸するように、笑うように、歩くように、点滅を繰り返しながら。

 肉体や人格や思想を離れた場所で見渡すと、もう会えない人たちは「ひとつの青い照明」として存在している。
 彼らは今まさに「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづけ」ていて、そのいきいきとした営みは決して「わたくし」から失われることはない。

 愛したすべてが、自分と同じ青い光として、永久の点滅を繰り返しながら、存在する。
 そのはるばるとしたうつくしい想像は、少なからず賢治の心を癒したのだと思う。



BGM
Hiroki Chiba / mental sketch modified

 賢治についての話はいつか書くだろうと思っていたんですけれど。
 どうですかね、先生。


ヘッダ画像:
PexelsでのDavid McEachanによる写真: https://www.pexels.com/ja-jp/photo/91413/


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