大事にする(『雨がしないこと』(オカヤイヅミ)によせて)
『雨がしないこと(上下)』(オカヤイヅミ)を読んだ。
花山雨は、恋愛をしない。
「「そういう気持ち」が湧かない」のだという。
そんな彼女の周囲には様々な人物がいる。しかし共通して彼らのそばには、形こそ様々であるものの常に恋愛がついて回る。
だから、花山雨という人物を気味悪がったり、都合良く利用したり、そうなったのは自分のせいなのかと問いかけたりする。
花山雨自身はおそらく周囲から飄々とした人物として見られている。
マイペースで流されない安定した人物であると。
そんなわけはない。
どういう風にそんなわけはないのかは、ご自身で読んでもらいたい。
書籍の内容についての話はここまでだ。
なぜならこの文章は書評ではなく、『雨がしないこと』が呼び起こした私の感情についての記述だからである。
まとまりのない読みづらい文章になっているが、そもそも人の感情とはそのような形をしているという信念に基づき、ほとんど推敲をしていない。
私もいくつか恋愛はしてきたが、なんかもういいんじゃねーか、と思う。
恋愛「じゃなくても」、良いんじゃねーか、と。
恋愛関係になりたい、恋人になりたい、付き合いたい、ではなくて、大事にしたい。
あなたがあなたであること、あなたが生きていることに、でっかい花丸をつけたい。
私はあなたがいてとても嬉しい、あなたが生きている現在を、色々あるけれども、とても良いものだと思う、そう伝えたい。
煩わしくて疲れる駆け引きはいらない。
仲が良いときも、喧嘩しても、あなたが大事。それは常に変わらない。
大事にするとは具体的にどういうことなのかというと、それは作中で花山雨がしている。
かけたいから電話をかける。そっとなかったことにされそうな事柄と、それに対する小さな違和感を放っておけるだけの無神経さを持ち合わせながら、そうしない。そして家に呼んで食事をともにする。
結局相手への気持ちって一方的になりがちで、想い合っていると言える状態は本当に稀だと思う。
その、ときには暴力にすらなってしまいかねない気持ちの一方通行を、一方通行であるかもしれない可能性を常に引き受けて、それでも相手を想えたらどんなに良いことだろうと思う。
だって本当に伝わってるかなんてわからない。
伝わってないかもしれない、伝わっても受け取ってもらえるかはわからない、でも大事にしたいから私なりに大事にする。
恋愛という既存の型にはめれば楽かもしれないけど、そこから外れていくとまあ難しいこともある。どうしたらいいかわからないこともしばしばだと思う。
でも最善を尽くす以外に、できることってないんじゃないか。
上巻の第一章、冒頭の末尾のモノローグ。
なんとこの時点で既に答えが出ている。
知らなくても、話が合わなくても、「その人」を大事にできる。そういう方法があるんじゃないか。それを探しながら生きていけるんじゃないか。
ここまでの話を、マイノリティとか多様性とかそういった文脈の話と捉えられると居心地が悪い。
というか、率直に言うと、悔しい。
なぜかと言うと、ここまでしてきたのは「私とあなた」の話に他ならないからだ。
それが伝わっていないのだとしたら、非常に悔しい。
私はあなたを大事に思っている。だから、大事にしたい。
伝えたいのは、それだけ。
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