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象潟&三種への道⑦

さて、本題のじゅんさい摘みだ。
船から身を乗り出すようにして水中を覗くと、確かにくるんと丸まった若芽が見える。慎重に手を伸ばし、習った通りに茎を掴むが、この茎が意外と堅い。仕方なく若芽だけを摘もうと指を伸ばすが、想像以上のぬめりに阻まれ、そう簡単に摘み取ることができない。
しかも少し気を抜くと、船が動いてしまって、狙ったじゅんさいが分からなくなる。
「おじさんは鳥小屋に行ったんですよね」「つまりそこでこれから一羽絞めるってことだよね」…最初こそT先生ともぽつりぽつり話していたのが、お互いにだんだん距離が遠くなり、いつしか水中のじゅんさい探しにすっかり集中していた。聞こえるのはセミの声と沼に注ぎ込む湧き水の「コポポポ…」という音だけ。前かがみの姿勢で水面の大きな葉をよけながらじゅんさいを探す。
途中から茎を取ることは諦め、じゅんさいだけを取ることにする。その方が効率が良さそうだと感じたからだ。
しかし、私が見つけるじゅんさいはどれもそんなに小さくない。料理屋さんで出てくるものはだいたい1~2cmくらいの大きさだが、私のバケツに溜まっていくのは3cm、下手すれば4cmくらいのものばかりだ。あの小さなじゅんさいに高値が付けられている理由が分かった気がする。小さければ小さいほど、じゅんさい摘みには技術が要るのだ。
 
加食用としては大き目なじゅんさいではあるが、そこはやはり若芽。水中に潜む姿はなんだか可愛らしい。「見つけたよ~。摘みとっちゃうからね」とほくそ笑みつつ手を伸ばすと、じゅんさいは抵抗するように水中で激しくぬめる。
そんな時、技術不足で船が動いてしまい逃げられることもしばしばあるが、か弱いじゅんさいをうまく追い詰め、摘み取れた時にはその分大きな喜びがある。収穫の喜びというには少し後ろめたい、ちょっとした背徳感こそ、じゅんさい摘みの魅力かもしれない。
作業中、ずっと前傾姿勢で集中していたため、途中何度か背中を伸ばして深呼吸をしたが、その度に、目に飛び込んでくる周囲の景色のあまりの鮮やかさに驚かされた。
水面のきらめき、山の緑、空の青、どれもが本当にクリアで、ただただ美しい。哀愁溢れるツクツクボウシとミンミンゼミの二重奏が情感をさらに高める。脳内では井上陽水の「少年時代」がエンドレスで再生される。
これぞ正真正銘の「日本の夏」だ。

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