楝の花

・あふち咲く外面の木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり  藤原忠良

古い団地の法面に一本の樹が立っていた。団地の四階に届きそうなとても大きな樹だった。そんなに大きな樹なのに、周囲の樟の木や桜の木にまぎれて、一向目立たない様子だった。何の樹かわからなかった。公団の植栽として植えられたものではなさそうだった。団地の住人が勝手に苗を植えたのか、あるいは鳥が種を運んだものかもしれなかった。
ある初夏の朝、雨がやんだばかりの歩道橋を渡っている時、ほのかによい匂いが流れてくるのに気付いた。おそらく花の匂い……。
それが楝の花の香りとわかったのは、濡れた歩道橋の路面に細かい紫の花殻が落ちていたからだ。どこに楝の樹があったんだ、と見回したら、例の大きな樹がとても高い梢で花を咲かせていた。わたしの足許、花殻が吹き溜まっているところから、楝の樹まで車道の幅にして八車線分ほど離れている。あんなところから風に乗ってここまで飛んで来たのか、花も香りも。そう思うと、何だか無性にうれしく思えた。
人間は鈍感で、それまでぼんやり見逃していたものに突然気付いてみたり、そのことを勝手に喜んでみたりと忙しい。だが楝は誰に気付かれようと気付かれまいと、ずっと楝でいるだけだ。花は遠目にほんのり暗い雲のように見えた。

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