痛みを学習したきっかけ

この習慣的な痛みは、こどもの頃、小学校6年生頃に身に付けたものかもしれない。夏休み、母の実家に滞在中に日射病(熱中症)から激しい頭痛嘔吐となり、夜間診療所で点滴を受けた記憶がある。これが、痛みという、自分にも周囲にも有無を言わせない「表現」を学習したひとつのきっかけだったかもしれない。普段の生活の中で、夜、「頭が痛い」と言えば、母は小児用バファリンを出してくれた。小さいオレンジ色の錠剤だった。それを飲んで横になっている間は、わたしを攻撃しなかったように思う。朝になれば休まず学校に行った。

痛んでいる間は、痛いから、ものを考えずにすむ。何かを感じることも、しなくてすむ。痛みが、自分と外界を遮断してくれる。そのあたりに、痛み持ちになったいきさつが隠れていそうではある。本当のことはわからないが。そして一時しのぎの方便だったかもしれない痛みは、今もわたしの身体の中にいる。


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