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アジアで初めて第九が歌われたのはドイツ兵収容所だった

毎年、師走になるとベートーベンの交響曲第九番があちこちで演奏されます。合唱に参加しているという方も多いのではないでしょうか。
もはや日本の風物詩となった第九ですが、初めて我が国で演奏されたのは大正時代、1918(大正7)年6月1日のこと。演奏したのは、なんとドイツ兵捕虜でした。
場所は徳島にあった板東俘虜収容所。
日本初の第九演奏の背景には、【武士の情け】を貫徹した、ある会津人の存在がありました。
その会津人とは、松江豊寿陸軍少将です。

本来の武士道は敗者を決してさげすまない

あれは、忘れもしない2017年の2月22
私は講演のため徳島を訪れました。
講演では、武士道の本質とは慈悲であり愛であること、ゆえに日本兵が敵兵を救助した・・という話も散見されるのだ、といったことを話そうと心に決めていました。
それだけに、会場に到着した際、ふと見ると【武士の情け】と揮毫された石碑があることに驚かざるを得ませんでした。
思わず早足に石碑に近づいてみると、なんと、松江豊寿(まつえとよひさ)大佐の住居跡とあるではないですか。

呼ばれたな、と、思いました。
まさか徳島で会津藩士を先祖に持つ偉人と巡り会うとは思ってもみませんでしたが、どうも、こういう導きが多いのです。

松江豊寿は明治5年、会津若松市で生まれました。先祖は会津藩士です。
幕末に会津藩は俄に「朝敵」とされ「賊軍」呼ばわりされる立場に追い込まれました。ゆえに豊寿の幼年時代も推して知るべしで、苦汁をなめながら武士の意地で生きてきたのです。
日清・日露戦争にも出征したのち、1914(大正3)年に陸軍歩兵中佐に進級し徳島の歩兵第62連隊附となりました。
松江豊寿が徳島に赴任したまさにこの年7月に第一次世界大戦が勃発。青島の戦いで日本に降伏したドイツ兵は、日本各地に12カ所(のちに6カ所にまとめられる)あった収容所に収容されることとなります。
その際、松江豊寿は徳島俘虜収容所の所長に任命されたのでした。そして、収容所が6カ所にまとめられた際に、板東俘虜収容所長として就任します。

所長に就任した松江豊寿は、
「武士の情けをもってドイツ軍人と接するように」
と下知しました。
慶応四年(明治元年)の会津戦争の折、西軍は会津藩士の屍を荒野に放置したままにしました。これは武士道の「惻隠の情」や弱い者をいたわる「悌」の徳目に反するものであり、非常に残念であり、また残忍です。
「せめてわずかなりとも薩長に武士の情けがあったなら」と嘆く大人たちを豊寿は幼い頃に幾度となく目の当たりにしたとも伝えられます。
そうした幼少期の体験が、豊寿という武人の中に「武士の情け」という武士道における最も重要な徳を植え付けたのでしょう。
これが徳島にある石碑です。

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ソーセージとドイツパンがテーブルに載る収容所

明治に創設された帝国軍は、陸軍は長州、海軍は薩摩という派閥ができていました。
松江豊寿の方針は陸軍の産みの親とされる山県有朋にはすこぶる不評で、「捕虜に対してそのような扱いをせずとも良い」という命令を幾度も受けたようです。しかし松江はその都度、それを斥けました。
ドイツ兵の捕虜には、
「あなたがたは祖国を遠く離れた青島で祖国愛に燃え最後まで戦い抜いた勇士だ。刀折れ矢尽き果てて日本軍に降伏したとしても、あなたがたの愛国精神と勇気は失われるものではない」と語りかける。
そこには松江豊寿自身の、我々会津藩士は負けたとて祖国を愛するがゆえに闘った勇士だ、という自負もあるのです。
やがて板東俘虜収容所ではソーセージが製造され、ドイツパンが焼かれるようになりました。また、トマトやキャベツなども栽培されるようになり、ドイツ兵たちが、祖国の日常に限りなく近い生活をできるように整えられたのです。
また、文化活動も許され、読書をしたり、収容所内で新聞を発行したり。周辺住民との交流も行われるようになり、町の人々は「ドイツさん」と親しみを込めて呼ぶようになりました。これがやがて日独の文化交流の原点にもなっていくのです。
もっとも、このようなことが実現できたのは、ひとり松江豊寿の力だけではなく、日本政府の後押しもあったようです。日本としては、この機会にドイツの生産技術や科学技術を導入しようという目的もありました。

歓喜の歌が収容所を包み込んだ六月


文化活動の中には楽団による楽器演奏もありました。
ドイツ兵の中には、バイオリンやチェロなど、楽器を演奏できる者もいたのでしょう。楽団が結成されたのです。
そして、1918年6月1日、楽団員達は、日頃の感謝を込めてベートーベンの第九を披露したのです。
結成したといえども、楽器が満足にあるわけではありません。
不足している楽器はオルガンなど他のもので代用し、また、女性パートは高音のある男性たちが担当しました。

収容所の中での、ささやかな、けれど、万感の思いを込めた「歓喜の歌」。
松江豊寿所長を始めとする職員達の感激は、いかばかりであったでしょう。

日本で初めて演奏された第九は、不完全ではあったかも知れないけれど、慈悲と慈愛に満ちたものだったのです。
それは敵味方や人種を越えた真実の愛でした。
日本初の演奏は、恐らく、アジア初だろうといわれています。

クリスマスの別れ

第一次世界大戦が終わり、板東俘虜収容所も閉鎖されました。
12月25日。クリスマスの日のことです。
正午、広場に整列、最後の点呼が行われました。
午後一時。別れの刻限です。
ドイツ兵達は、一糸乱れぬ行進で板東俘虜収容所から出て行きました。
その数、約1000名。
町の人たちはドイツ兵の「勇姿」を総出で見送りました。
自然と涙が浮かび、頬を伝い落ちるのを、誰が止めることが出来たでしょう。
見事なひげを蓄えた松江豊寿はしかし、古武士のように毅然として彼らを見送ったのでした。

「松江所長のような俘虜収容所長が、いったい、世界のどこにいるだろうか」
ドイツ兵の言葉に、松江豊寿への感謝と畏敬の念があますことなく含まれています。

会津は敗者かもしれない。けれど、負けを引き受けても、決して心は負けていない。まして誇りを失ったわけでもない。

負けても負けない心というものがあり、負けても負けない生き方というのがある。

第九演奏の感激とともに、わたしが伝えたいことです。

第九を耳にしたとき、かつてそんな生き方をした日本人がいたことを想い出していただければ幸いです。

◆松江 豊寿(まつえとよひさ)1872(明治5)年7月11日~ 1956(昭和31)年5月21日。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長。

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