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5.推古天皇の詔勅「三方を興し栄えさせなさい」
仏教が伝来した当初、日本は仏教を「祖先に対する報恩と追善」として受け止めていました。
それがやがては天変地異をはじめとする種々雑多の国難から国と民を守るためのものという位置づけが加わっていったのです。
その背景には、天皇が率先して仏教を受け容れたことがあります。
『日本書紀』の第33代・推古天皇二年(五九四年)二月丙寅朔日の記録には、
「皇太子および大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。この時に諸臣連等、おのおの君臣の恩のために競いて仏舎を造る」とあります。皇太子とは聖徳太子のこと、大臣とは蘇我馬子です。三宝は仏法僧を意味します。
つまり推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子に仏教を興し、栄えさせよという詔勅を下したのです。
この瞬間、仏教は国教となったといっても過言ではありません。もちろん、だからといって神道が排除されたわけではありません。あくまで神道と仏教を共存共栄させていく道が選ばれたのです。
聖徳太子と蘇我馬子は、ただちに推古天皇の詔勅を臣らに伝えました。その結果、競い合うようにして寺院が建立されるようになったのです。
奈良県の明日香村には日本で初めて造立された初の仏像「飛鳥大仏」があります。完成は六〇九年と推定されており、オリエンタルな雰囲気が漂っています。飛鳥大仏をご本尊とする飛鳥寺には、同じく日本初の仏舎利も安置されています。
ついでながら、推古天皇は初の女帝であり(神話に出てくる神功皇后を除く)、聖徳太子は甥に当たります。推古天皇は聖徳太子の有能さと誠実さを高く評価し、養子として迎え皇太子としています。
いずれ聖徳太子が天皇として国を治めるようになることを期待したのでしょう。
こうして仏教が興されたことにより、推古天皇十四年(六〇六年)には、諸寺において四月八日の灌仏会と七月十五日の盂蘭盆会が毎年行われるようになりました。
今も寺院に伝わる大切な仏教行事ですが、そのはじまりは飛鳥時代にまで遡るのです。このように仏教が興隆する中で制定されたのが、わが国初の憲法、聖徳太子の十七条憲法です。
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