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9 梅すだれ 日向の国

 全力で森を走る猿彦は、崖にたどり着いた。向こうの山までは十けんの距離がある。この谷間には石丸と一緒にかずらで作った橋を架けた。その橋を猿彦は歩き出した。走ることはできなかった。ゆらゆら揺れる橋を落ちないように慎重に歩いて渡った。その時、カン!カン!と、田んぼや畑で鳥や動物を追い払うときに打つ竹の音が鳴り響いた。

 一つ打って、を置いてまた一つ、それが五回鳴った。しばらくすると、今度は二回打つのが五回聞こえた。そしてかすかな音だが、三回打つのも五回聞こえた。何かの合図だとしか思えない。山之影の焼き討ちが今まさに決行されている!

 猿彦は自分だけ逃げ出していることに、忸怩じくじたる思いがした。村を外れて森に住んでいたとはいえ、村人全員が生まれる前からの知り合いだ。お千代の村のように、どの家とも血縁関係がある大きな家族だった。親兄弟が死んでしまった猿彦だから、ほかの家の農作業を手伝ってご飯を食べさせてもらったりもしていた。

(村へ戻ろうか?)

 そんな思いが頭を横切りもしたけれど、それを打ち消すように石ちゃんの「逃げろ!」が聞こえた。助けてくれた石ちゃんの為にも(生き延びなければ!)と、覚束おぼつかない足を前へと進めた。

 渡り切るとふところから石を取り出した。黒く光るその平べったい石の先は鋭く尖っている。黒曜石の石刃せきじんだった。これは石ちゃんからもらった。石丸の住む西野原には、黒曜石の露頭がある。そこから掘り出した黒曜石は、もちろん天野原への献上品の一つだった。

 天野原の湖の水を使わなくても生きていける西野原ではあったけれど、作物はあまりできない土地だった。天野原の作物と交換される、西野原の生命線とも言える黒曜石だった。

 石丸の家系は代々黒曜石を加工することを生業にしていた。石刃から飾り物まで需要に応じて幅広い品を作っていた。そんな石丸は、一人で森に住む猿彦にポケットナイフとして黒曜石の石刃をあげたのだ。猿彦にはそれはとてもありがたくて、捕まえた鳥や動物をさばくのに使っていた。

 その石刃で、猿彦は断腸の思いで橋を切った。

 石ちゃんと何日もかかって苦労して架けた橋。今年の秋はこの橋を渡ってもっと広い範囲を散策することになっていた。美味しい食べ物をたくさん見つけようと約束していたのに。

 この橋を切り離すことは石ちゃんとの約束を破ることになるのでは。二人の縁さえも切り離してしまうように思えた。

 しかし、もう二人で遊ぶことなんてあり得ないのだ。猿彦は自分の身を切るような痛みを感じながら、橋を切り離した。

 この橋さえなければ、すぐにはこっちまで追いかけて来れない。北の山を越えるか、南へ五里迂回しなければこちら側へは来れないのだ。

 安堵を覚えながらも、でも安心はできなかった。猿彦はまた走り出した。

 (この山を朝までに越えなければ!)

 日の落ちた暗闇を猿彦は猿のように、木の幹を蹴って駆け上がっていった。身の軽い猿彦はスイスイ登り、そろそろ頂上という時に何気なにげに村の方を振り返った。

 すると、闇の中に赤い巨大な炎が見えた。

 猿彦の口から「ああ・・。」と声が漏れた。

 山之影が燃えていたのだ。

「なんてことを!なんてことをすると!!」

 思わず大声で叫ぶその目からは、大粒の涙が流れた。

「花畑は焼かんとか!みんなを焼いても、花は焼かんとか!!」

 山之影は代々天野原のために働いてきた。天野原のために花を育て、田んぼを耕し米を作って来た。そんな山之影のみんなを、

「なんで焼くと!」

 怒りと悔しさ、そして悲しみ。

 どうしようもないこの理不尽な現実に、猿彦は大声で怒鳴った。聞こえるはずもない天野原へ向かって。


 どれだけ怒鳴っても、猿彦の声は闇に吸い込まれてしまう。腹の中が沸き立ったように全身を揺らした。慟哭する猿彦は膝から崩れ落ちて、地へと突っ伏した。斜面を頭から転がり落ちたが、生い茂る木の幹に体を打ち付けて止まった。落ちることもできない猿彦であった。

 ひっくり返った猿彦が見たのは、木々の隙間に輝く星々。いつものように天は光り輝いていた。

 それはまるで天野原。山之影がどれほど体を酷使して働こうとも病に苦しもうとも、天野原は高い場所で悠然と雅やかなのだ。

 山之影に生まれた自分は雑草のように焼かれて当然の、惨めな生き物。

 悲しみから諦めへ。

 自分の流す涙に濡れながら、猿彦は石刃せきじんを取り出して首筋にそのやいばを当てた。これを引けば山で捕らえた獲物のように、血を吹いて死ぬ。しかし、ひやりと冷たい石に体の熱さを感じた猿彦は、石ちゃんの熱い心を思い出した。

「逃げろ!」

 必死に叫ぶ石ちゃんのあの声が、猿彦の自暴自棄な心を吹き飛ばした。

(寝てる場合じゃねえ。逃げると!)

 立ち上がった猿彦はもう振り返らなかった。一目散に頂上へと駆け上がり、そして闇雲に山をくだった。生まれ故郷、日向ひむかの国に背を向けて。


つづく


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