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「かわいそう」って、何だろう?

やりたいをやったにする、そのことに集中しはじめて今日で48日目。
朝からハプニングどんでん返しありで、お仕事デーになるはずが、予想外に娘とショッピングセンターでお買いものデーになった。結果として、前から欲しいと思っていた娘の長靴を買うことができ、室内で遊んで、さらにお弁当も食べて、いろんなことがぴったりちょうどいい1日になった。

今日は、ショッピングセンターでの買い物中の出来事を書いてみたいと思う。
娘は先天性心疾患で治療中なのだが、酸素療法をしており、いつもチューブを鼻につけて酸素を補ってもらいながら生活している。

出かけると、たまに、すれ違った方から「かわいそう」、と言われる。これにはびっくりした。
わたしは、今まで娘のことを「かわいそう」と思ったことがないからだ。旦那さんは、娘の胸の大きな手術跡を見て「かわいそう」、と言ったりするのだが、わたしはどこかで娘が選んだことで、それを尊敬している気持ちが強いからか、そういう感情が湧かない。さらに、「親なら自分が変わってあげたい」、と思うでしょう?とも言われるが、ごめん、全然思わない。しんどいだろうなぁ辛いだろうなぁとは思うけど。たぶん、薄情なのか親という意識が薄いのか、ただただ、娘を信頼しているだけだ。

話は戻るが、「かわいそう」と言ってこられるのは、年配のおばちゃんおじちゃんか、小学校低学年の子どもであることが多い。大人は気を遣って何も言わない人が多いけれど、小さな子どもは素直にすぐ「お鼻どうしたの?」と聞いてくれるから、すごく嬉しい。

今日はエレベーターに乗っていたとき、乗り込んできた小学生の男の子が「かわいそう」「かわいそう」と連呼してきた。わたしはとっさに、気づかないふりをしてその場をすごしてしまった。その声は、一緒にいたお母さんに向けて言っており、お母さんはこちらに気を使って何も返事をしないので、彼は「かわいそう」とさらに連呼する(笑)。どうやら、彼の「かわいそう」は、本当はそれが言いたいのじゃなくて、「お母さん、あの子はぼくらにはない鼻のチューブをつけてるよ。なんでつけてるの?病気?」と聞きたかったのかもしれない。わたしはご機嫌だったから、特に気にせずエレベーターを降りた。
以前だったら、「わたしも娘もかわいそうじゃない、かわいそうかどうかは私たちが決めることだ」と憤慨して悲しかったかもしれないが、そういう気も起きなかった。

別に言わなくてもいいけれど、その子に少し異なる者への橋渡しができたらよかったな。娘は生まれつき心臓の病気があること、そして治療のため酸素を吸っていること、世の中にはそうして命をつないで暮らしている人がたくさんいること。
わたし自身、娘がこういう病気を抱えて産まれてきたことで、本当に今まで知らなかった世界を知ることができて、嬉しいのだ。
でも、たぶん言われるということは、わたしの体のどこかに「かわいそう」が少しはこびりついてるということだろう。

改めて考える。

わたしと娘は、わたしたちの物語を最高だと思っている。
娘はこの先大きくなるとそうは思えない時期もあるだろうけれど、少なくともわたしは、わたしたちの物語はすべて最高だと思っている。

ああ、それからもうひとつ、思い出した。しんどいときに、声をかけてくださる方たちも、たとえ表現が『かわいそう』で、わたしが共感できないものであったとしても、その人なりの愛で言ってくれていることを感じられるようになった。

そんなことを考えながら、娘が寝入ったあと夜風にあたりに外に出ると、月が、凛と光ってむかえてくれた。

(48日目/1000)

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