矢となるか、木の葉となるか -落ち着くところに落ち着く-

数年前の同僚との英語レッスン、イギリス人の先生が議論題材を投げた。

<あなたは矢なのか、木の葉なのか>

つまり、何かに照準を合わせる「矢」となる生き方をしてきたか、それとも、「木の葉」となって風に吹かれるままだったのかという事だ。

私の回答は「矢」だったのだが、その他多数は「木の葉」と答えたのだ。
これは私にとっては結構衝撃的だったのだ。

私は自分の欲しいものや、やりたいこと、なりたい自分をイメージし、大きな夢や目標に向けて小さな目標に落とし込み、常に矢を放ち、今までの自分を作り上げてきたと思ってきた。
しかしながら、「木の葉」と答えた多くの同僚は、「矢」を放たずに自然に任せて、少なくともキャリア形成においては、私とほぼ同じ立ち位置にいるというのだ。

つまり、「木の葉」と答えた彼らは自然で、「矢」と答えた私は不自然?ということなのか?

確かに「矢」を放ってきたとは言え、常に狙いの的に当たるとは限らず、いくら狙っても当たらないものはご縁(適性、能力)がなく、別の的に妥協した事もあった。強風が吹いて、矢が風に流される事もあったかと。

<山登り型か、川下り型か>

キャリアに関する同じような話として、「山登り型」と「川下り型」といった考え方が存在する。その話を聞いた時も、確かに「山を登ってきた」つもりだったけど、「川下り型」だったかもしれないと。

「山登り型」のゴールは山の頂上であるが、「川下り型」のゴールは大海原か?ゴールが山の頂上であると、結局たびたびコースの変更が必要かもしれない。だんだん空気も薄くなって大変になるだろう。川の流れるがままを楽しみ、大海原を目指す、そんなキャリアの考え方も確かにいい。

■落ち着くところに落ち着く

自分で狙ったと思っていたとしても、狙う事そのものも運命によって決められていたのかもしれない。思い通りに行かない事を経験することもまた運命で決められていたのかもしれない。そもそも運命は決められているものなのか?と、考え出すとドツボにはまりそうだ。

結局、落ち着くところに落ち着くということなのだろう。