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「クリニックの診察券」(『このあいだ』第7号 2021/4)

 ことし正月3日の夜、近くの銭湯に行った。次の日は仕事始め、年末年始休暇に重ねた楽しみや息抜きの材料を、じっくり湯船で煮つめ、身体中に滋養を行き渡らせるために、自分としては比較的長い間湯に浸かった。浴槽は深くて小さく、人は少なかった。名を知らない常連のおじいさんと言葉を交わした。ちょうど良い湯加減だった。

 脱衣場にはテレビがあって、番台のおじさんがじっと見ている。上も下も完璧に下着だけを身につけた先客の老人が2人、駅伝を見ながら話をしている。画面には1人の走者がずっと映されている。

「高校野球に出るより、こっちの方が顔を覚えられるんちゃうか」
「そやな、こんだけ映っとったら名前も売れるな」

 ぼくもしばらく画面を眺めたが、3ヶ月後、走者の顔も名前もすっかり忘れてしまった。あまり興味を持たずに見たからだろう。これまで、駅伝がひたすらテレビに映り続けているのは、親戚の家でも電気屋でも正月のひとつの風景に過ぎなかったし、この年頭の銭湯でもそうだった。少し想像すれば、あの画面の中にはいくつもの強靭な肺と心臓の、呼吸と鼓動があったのだろうが、それを考え出すと動悸がする。少し話頭を転じよう。

 ポップ・アートのアイコン、アンディ・ウォーホルはたしか1960年代か70年代に、「将来は誰でも15分間だけ世界的な有名人になれる」というようなことを言った。ぼくは今もってその真意を理解しかねているが、それを読んだ高校生の頃はドラえもんのひみつ道具のようなものの発明によって、そんな時代もいつか来るかもしれないと漠然と思ったものだ。しかし「何か」がすごい勢いで繋がることによって、いつの間にかそれらしき状況になっている。テレビやラジオ、新聞や雑誌しかない社会では知られることもなかっただろう人々が、多くのフォロワーとビジネスチャンスを手にしている。ここ日本では「ジャッキー」や「ブリロの箱」よりずっと有名になることも、見た目はいかにも簡単そうになった。

 有名になって何か良いことはあるのだろうか。無論、ぼくも自分の属する組織で、少しでも名が通るようになれば、それなりに受ける利益というか、はかってもらえる便宜もある。けっして良いことずくめではないが、正直に言って知名度が上がるというのは悪い気のしないものだ。しかしなぜ名を知られて得意になるのか。それは、覚えていてもらえるということによる安心からの底上げではないだろうか。

 しかし知られることには忘れられることが伴う。もし「15分間だけの有名人」が本当にあることであれば、忘れられるのも足が早いに決まっている。15分の得意の絶頂の後には忘却の深い淵に突き落とされてしまうだろう。

 ウォーホルの絵に電気椅子や自動車事故の写真を元にしたものがあるのは、有名人や富豪の肖像画の絵が数多く存在することと表裏一体かもしれない。工房ならぬ「ファクトリー」から生み出された作品の数々には不気味な死の影がつきまとっている。有名人に憧れ、自らも有名人となったウォーホルの胸中にはどんな思いがあったのだろう。

 ところで、本当の意味で有名になるためには、地球の総人口をフォロワーにつけることも、自分自身のことをよく知るに如かないのではないかと思う。自分が何であったかを知り、どんな人々に支えられたかを思い、どんな人々の助けになれたかもしれないかを想像し得てはじめて、自分は名のあるものだったと知り、有名たり得るのではないだろうか。自分自身が自らのことを忘れるのかもしれない死の瞬間にあってもなお、自分とは何だったのだろうと迷うなら、その呟きが最後の息となりそうだったら、まさに有名無実の境地に入りかけているのではないか。

 私は通院しているクリニックの診察券に書かれた自分の名前が好きだ。そろそろそれを誰よりも知っている人間と言えるまでになっただろうか。まだまだかもしれない。それでも自分を知ることを人任せ、神頼みにしない。「知られている」ということは、結局自分で納得することなのだ。

 「名もなき」花や「無名」戦士と言ったりするが、それは目立たないものには目を向けない私たちの軽率さ、あるいは無慈悲な暴力が生み出す修辞に過ぎない。名はあり、また名付け得るはずのものだ。

 人は「汝自身を知れ」と刻まれたアポロンの神殿の神託によって、『オイディプス王』のように悲劇の転落をすることもあるのかもしれない。しかし後日談『コロノスのオイディプス』において王は「もはや誰の役にも立たぬ者となったとき、おれは男となったのか」と独白している。それは私のいちばん好きな場面。私のこころに深く触れた言葉。「男」という語には私のいま書いている文脈での「有名人」という語を代入してもいい。

 年始、小さな銭湯の脱衣場で見た駅伝。あれから走者が有名になったのか、元から有名だったのか、私には皆目わからない。走りながらどんな煩悩が渦巻いていたのか、あるいは無心の境地で走り続けていたのかもわからない。しかし走者は練習のとき、そして本番当日、自分がどんな行程を、どんな鼓動とともに、どれくらいのスピードで、どんな風景を横目に見ながら走ったかを、誰よりも知ることができたはずと思う。人生を走る競技に例えた使徒パウロも、殉教を前にして「走るべき行程を走り尽くした」と言った。彼に帰せられる「教義」の真偽はともかく、走り終えた後の湯の中で味わう「神の覚え」は格別だったに違いない。

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