「現在地を取り戻す」ということ。
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「現在地を取り戻す」ということ。

買った本とか読み直したい本がたくさんあるのに、読まずにいた。仕事の原稿は読んでいるけど、「落ち着いて読書する」モードが訪れない。

大きな不可抗力に身を置かれると、焦りと不安で浮ついて、浅い思考が上滑りする。だから意識的に「何もしない」をして、流されない時間をこじ開ける。どうせすっからかんで何も考えられないのだから、神妙なフリして余計に疲れるより、寝起きのおぼっちゃまくんみたいな呆けた顔で過ごせばいい。自分の時間の流れがゆっくり立ち上がり始めたころ、ようやく思考する余裕が生まれてくる。

36年も自分の不器用さと付き合ううち、「急激な変化に対応するためには、まずは何もしない時間が必要」と気づき、ずっとそうやって生きてきた。「こういう時だからこそ」と、いち早く新しいことを始める人がグイグイ社会を動かしていくことに対して敬意をもつ一方で、俺はいつも停滞するように立ち止まる。

この「焦る時こそ立ち止まる」という方針は、概念でも動けない人のうじうじした悩みでもなく、文字通り「生き延びるための術」としてスタートした。それを体感として教えてくれたのが、大学の時にやっていたオリエンテーリングという山岳競技だった。

オリエンテーリングは北欧の軍隊が起源の山岳スポーツで、登山道を外れた剥き出しの山肌が舞台だ。地図とコンパスだけを手に地図上に記されたチェックポイントを順番に辿り、一番速くゴールにたどり着いた人が勝つ個人戦。幼稚園や保育園のときに大きな公園でみんなとやった「あれ」の本場は、シビアで孤独な山岳競技なんです。

オリエンテーリングで使用する「O-MAP」と呼ばれる地図には、地上にある全ての物体の形が縮小して記してある。等高線や尾根・沢の形状はもちろん、薮の茂り具合、カマドくらいの小さな穴、杉の木の列と別の木の列の境界線、置き捨てられたままの廃車まで、現実の視覚的要素が記号によって克明に再現された地図。小宇宙。ものすごい精密さ。この赤い数字を、順番にたどっていく。

オリエンテーリングのコース例

このスポーツの醍醐味は、地図を読む知力と、道なき山を駆けずり回る体力の双方が最もバランスよく発揮されるルートを「自分自身で見出すこと」にある。走力にまかせてスピードをあげ過ぎれば簡単にぶっ飛んで現在地を見失うし、地図ばかり見てちんたら歩き続ければ日が暮れる。誰にも頼れない状況で、「常にリアルの現在地と地図上の現在地を一致させつつ、自分をどれだけ速くナビゲーションできるか」というのが、競技としてのオリエンテーリングのキモなのだ。知力と体力のハイブリッド。冷静と情熱のあいだ。精神と肉体のバランス感覚。

チェックポイントのあるスピード競技なのだが、そのルートには「正解」がない。チェックポイントをつなぐ直線上を辿れば最短距離にはなっても、山には「高低差」があるから、等高線をまたぎすぎればあっという間に体力を奪われる。人間は脆くか弱い。スタートの時点でコース全体を見渡し、自分の今の知力と体力を踏まえどこに勝負ポイントが訪れるか、そこまでにいかに省エネかつ最短のルートを見極めて進めるか、決めて、走り出す。

「遠回りに見えるけど、この尾根を外側から迂回したほうが視界良好じゃね?」
「コンパスを目的地に合わせたら、男は黙って直進あるのみ」
「出来るだけ等高線を切らない省エネ作戦でいく」

そういう自分だけの作戦を立て、思い描いた光景が目の前に現れ目的地にある旗を発見した時、アドレナリンが全身を駆けめぐる。

そして、やっていることは「地形を予測して現地と照合する」という仮説検証の繰り返しだから、経験を積むと「初めて行くところでもなんとなく景色が予測できるようになる」というところに、このスポーツの知的な面白さがある。

「ポスト」と呼ばれるチェックポイント

ただ、俺にとってのオリエンテーリングの魅力は、その競技性にとどまらなかった。むしろ競技性よりも、人の手の入らない山中の景色そのものが、下界と隔絶された究極の非日常であることに魅了された。

惹かれた山は富士山だった。よく知られた登山道ではない。死者の魂が眠る樹海の中に拡がる、見たことのない地形に圧倒された。地面がところどころぽこぽこと浮き上がっている。スキーのジャンプ台に似た斜面が四方から迫ってくるような場所があり、その谷間の一角だけ妙に枯れ草が生い茂っている。太い幹が綱引きの綱のようにグルグルととぐろを巻いた巨木が立っている。可愛い双子みたいな小さな丘がちょこんと二つ並んでいて、その片方のてっぺんに一本だけ小さな木が立っていたりする。それはなんだか小動物のお墓のように見える。

アメーバが体を変形させる瞬間を凍結させたような想像もつかない地形が次から次へと現れる。美術館に並ぶどんな前衛芸術よりも奇妙で魅惑的な、人間の創造力の限界を超えた自然の造形が音のない森の中に無数に展示されていた。アスファルトで舗装された道路から少しずつ遠ざかることが、ビルの森に住む自分の今までの生活を霞ませる。初めて見る嘘のような地形や景色が、本当の嘘は何だったかを教えてくれる気がした。

富士山中の造形で俺が断トツに度肝を抜かれたのが「亀裂」と呼ばれる地形だった。突然地面が割れている。モーセが割った海のように、幅2メートルほど5メートル下に沈んだ世界が山を縦に切り裂いている。彼岸との間が絶望的な迫力で分け隔てられていて、肉まんを真ん中から手で二つに割ったその縁に立たされたような貧弱な光景を思い浮かべる。

マジでこんな感じです

大地震で地割れが起きた映像をテレビで見た時は、火災や建物の損壊に関心を奪われてしまうが、目の前にあるのは、圧倒的な活火山の力が何の悪意もなく発揮された痕跡だ。それは神秘的で、途方もない力の美しさというものを初めて体感した。

それと同時に、今自分の立つ地点が富士山の何分の一であるのかを想像する。富士山の面積が東京ドーム何個分であるかもなぜ東京ドームが日本人全体の単位として機能すると思ったのかも知らないが、少なくとも俺一人が立つ面積など東京ドームの何万分の一にも満たない。山が一つの生命体であるならば、それと比べた俺の非力さはもはや喩えようがない。

「焦る時には立ち止まる」話だ。俺は、そんな文明人の常識がまったく通用しない奇形だらけの山中で現在地を見失ったことがある。石塚真一の名作漫画『岳』にもあったように、迷った時は、どこにいるかもわからぬまま下手に動けば完全に現在地を見失い、下手すれば死ぬ。Tシャツとスパッツの身軽な装備でスピード競技をしていたはずが、迷った瞬間重装備の登山遭難者と同じ状況に陥る。

現在地をロストしたまま3時間が経過する。焦りは募り、日は傾き、脱水と飢餓で筋肉が痙攣し始める。眼前を通り過ぎる鹿の家族や足元でうねる蛇に本気で助けを求めたくなる。途方に暮れて斜面にうずくまる。木々が擦れる音と虫の羽音を聴きながら思考する体力すら尽きて無になった頃、ふと「俺が消えても世界は回る」と直観した。山は俺を殺そうとしていない。ただ、俺が無力なだけだ。

その時なぜか急に怒りが湧いてきた。ふざけんな。死んでたまるか。非常電源が稼働したかのように体の内奥から「うああああああ!」という咆哮が猛り出たその反響を客観的に耳が捉えた瞬間、驚くほど冷静になった。頬を叩き、深呼吸をする。大きな地形を読んで、来た道を思い出し、ゆっくりゆっくり地図と景色を照合させていく。これを、現在地を取り戻すという意味で「リロケート」という。この薄氷のリロケートが、今に至るまで自分を守る大切な概念になった。

冷静になれたのは、「自分を生かす力」だったと思う。絶望的な状況下で誰にも頼れない世界で死を本気で覚悟したからこそ湧き出た力。俺はあの時、自分を生かすのは自分であると知った。生きる指針を誰かに預けたままである限り、自分自身が何を求めているかすら知ることはできないと痛感した。なぜ生きるか誰のために生きるかなど考える前に、自分が「生きたい」と思っていることを知ったのだ。木々に手をかけるその幹に俺の命が乗っていた。一歩一歩斜面を登り返すその足に生きたい希望を乗せていた。さらに1時間ほど経って山が薄闇に覆われる頃、俺は登山道に復帰した。

あれ以来、俺は経験したことのない状況に投げ出された時、立ち止まることにしている。自分はどう動くのか、何を守りたいのか、どう生きたいのか、思考の奥に潜む身体的な本能がひょっこり顔を見せるまで。

地震や火事に遭えば、即刻全速力で逃げるけど。


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編集者。aiko。早大文卒。2女の父。100m10"9。山。ウィスキー。『会って、話すこと。』『会計の地図』『0メートルの旅』『読みたいことを、書けばいい。』『アトピーの治し方』 『子どもが幸せになることば』等を担当。原書13作連続重版中。『雨は五分後にやんで』に小説寄稿