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2021年10月13日/大阪フェスティバルホール

aikoのライブに行くたびに切なさが増す。aikoも俺も確実に年をとっていて、毎回少しずつ終わりに向かっているからだ。

それは、俺がaikoに惹かれてきた理由そのものなのだと気づいた。

初めて訪れた大阪フェスティバルホールは荘厳で、二階席から見ると一階席は全体に緩やかな登り坂を描いていて、その真裏にある長いエスカレーターの坂をゆっくり登ったとこにある甘い絨毯からあなたに近づいていく。

今日、あなたは20年前の『夏服』を歌って、今日もまた「今もこの曲を歌えることが不思議でうれしい」と「もうやめろと言われるまで歌います」と言って、誰もやめろなどと言わなくたって必ず終わりがくる。

客席は距離をとり総席数の3分の2ほどしか埋まっていないはずなのに、あなたが客席へクレッシェンドで歌うたびに高い天井と空いた席の空間がデクレッシェンドのようにステージに向けて狭く収束していく。ライブとは、会って、歌うことだ。

10年前の横浜でイントロを絶叫した『シャッター』を今日のあなたはブルージーなアレンジでたっぷり歌って、でも同じようにアルバムの一曲目に悲恋を配置した『ばいばーーい』をストレートに歌い上げて、あなたは螺旋階段を昇るように生きていて、歌わなければ生きていけないあなたを生きている。

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メロンソーダはグラスホッパーになって、マヅラ喫茶店のソーダ水は74年前のまま。ああ、こういうの何て言うんだっけ。

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俺は寸分違わぬあなたの音をハイハットのタイミングまで染み付くほど聴いてすべての曲に自然と身体が動くけど、今日のあなたが奏でる音はそれと必ずズレていて、ズレが起きる度にいちいち小さな実が弾ける。あなたは声も動きもジャジーだけど、あなたが歌う姿を観て聴くこと自体が俺にとっちゃジャズなんだ。

息つく間もない『冷凍便』を歌い終えたあなたは「いまあたし歌ってる最中にどこで何をしているのかわからなくなった」と言った。どうしても乗り越えられないような酷く苦しくて悲しい夜を乗り越えてしまった。何かわからない模様も、あなたのいまの模様だ。

自分の書いた文章を読み返さない書き手は多いが、あなたは過去の自分の書いた曲を今歌う。身体の中で時空が歪む。それをわたしが観ている、聴いている。「文学は夜を乗り越えるためにある」と又吉直樹が言って、又吉は夜を乗り越えられなかった太宰治が好きだった。文学において「読みたいことを、書けばいい。」はあまりに自明なのだ。一瞬だけ救われる。それはあなたも同じなんだろう。切りすぎた前髪を右手で押さえていたあなたも、もうこんな髪もいらないから切ってしまおうよと決意して切らなかったあなたもいまのあなたの中にある。

23年も恋愛だけを歌い続けることにどんな意味があるのか。恋愛とは自分が壊れることだ。コントロールを失うことだ。誰かを好きになることは、終わりを引き受けることと同義だ。ほんとうは始まった瞬間に終わっている。それは人生そのものだ。それを痛いほど知りながら、終わりの中にある今を歌い続けている。それは生きることそのものだ。

あなたはあたしの向こうに。あたしはあなたの向こうに。3時間15分のあいだ田中泰延とは何も話すことなく、ただ向こうにいるaikoがボケる方向性の親近感に何度か苦笑し合った。なぜに大阪に惹かれる37年目の人生を生きている。

雲は白。青空。飛行機。少し好きが、めっちゃ好き。くすんだ心の曇天を陽光に照らされひび割れたコントラストを起こすとき、季節の流れにあなたの身体が追いつかなくなったとき、あなたはまた曲を書くのだろう。今日もあなたは、今日のあなただった。

白い服も黒い服も着たねって言ってたけど、あなた最近あまり黒い服は着ないじゃん。最初の衣装の白い服、大阪のおばちゃんだったよ。


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