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ことばのむこうに人がいる

『お金のむこうに人がいる』という本を出す。

お金がないと生活できない。そんなん当然だ。でも、それはなぜなのか。あなたはよどみなく説明できるだろうか。

「資本主義は限界にきている」とか頭のいい人たちが言う。ならどうすりゃいいのか。誰がどのように社会を良い方へ変えていくのか。あなたは知っているだろうか。わたしはぜんぜんわからない。政治家か。経済学者か。そもそも他人任せでいいのかな。

よくないはずだ。人と人は、お金を介して世界の隅々までつながっている。それが社会であり、経済だ。あなたがどのようにお金を稼ぎどう使うかが、確実に社会全体へ影響を及ぼす。

難しいことは書いてない。経済の本は入門書でも難しい。しかし本来、お金の話に、経済の話に無関係な人などいないのだ。中学生から現役を引退した高齢者まで、読書するすべての人が読める本にした。

話は、あなたの「財布の中」から出発する。財布の中だけを見ている限り、登場人物は自分だけになる。「自分のお金をどうすれば増やせるか」ばかりを考えるようになってしまう。

徐々に視野を広げていく。あなたがあなたの財布の外の世界を眺める旅に、この本は伴走する。いつの間にか「お金」の存在が透けていって、お金のむこうにある存在が浮かび上がってくる。

この本の骨格はQ&Aで構成している。

たとえばこんな問題だ。 

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いかがだっただろうか?

ブログの終わりの方とかでよく見かける「いかがだっただろうか?」とはなんなのだろうか。誰にどう答えればいいのだろうか。残り香みたいなイカ香だろうか。イカ臭いのだろうか。タコなのだろうか。書く意味ないのではないだろうか。

3つの問題の答えは、すべて「C」だ。

もし1つでも間違えてしまったなら、きっと「お金の力」を過信している。

この本を読んだあなたが、お金を使うとき、お金を受け取るとき、経済について考える場面が訪れたとき、中身をすべて忘れたとしてもこのタイトルだけ覚えておいてくれたならこの本を作った意味がある。そういう本になった。

本の目次を下記に公開し、本の紹介は切り上げる。

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ここからちょっと、本ができるずっと前の話をする。

いや、今野だけはないのではないだろうか。

この本は経済の入門書であり、ゴールドマン・サックス在籍時は一度の取引で数百億円数千億円数兆円のお金を動かしてきた金利トレーダーかつ『ドラゴン桜2』の制作にアドバイスするような田内学さんという人が書いた「お金」の本であり、未来のノーベル経済学賞すら囁かれマーケットデザインを専門とする経済学者の東大教授・小島武仁さんが勧める本だ。

しかし、編集したのはこのわたしである。わたしを誰だと思っているのだろうか。

わたしは文学部文藝専修出身者であり卒論すらまともな論文ではなく創作小説を書き数学は赤点連発で経済の毛もない間違えた「け」の字のレベルもロクに学んでこなかった男であり住宅ローンに追われ今すぐ誰かに間違って2兆円振り込んでほしい一般庶民代表である。

どう考えてもわたしと接点がなさそうな本なのだが、ある日コルクの佐渡島庸平さんから急にメッセージが来て「ゴールドマンにいた人がお金について考え直す本を書きたいらしくて、一年ずっと何度も書き直した原稿がおもしろくなってきたんですけど興味あります?」みたいなことが書いてあった。

いや待ってほしい佐渡島さんと仕事したことないし俺はもちろん佐渡島さんのこと知ってるが佐渡島さん俺のことほとんど知らないだろうしお金の本を俺に持ちかける時点で俺のことを何も知らないことが明白なのではないだろうかと思って「ありがとうございます。しかしなぜわたしに」とzoomで話を伺ってもやっぱりよくわからなかったので田内さんに会うことにした。人間が人間に抱く信頼は、会って話さないとわからないことだけに支えられている。

その後。佐渡島さんは器の大きい人で、「やるとしたらどのように制作を進めましょうかね」と聞いたら即答で「すべてお任せします。今野さんと田内さんがどうしたいかです」と言い切った。これは、なかなか言えることではないのだ。わたしはそこから佐渡島さんに一切関わってもらうことなく、田内さんと二人だけで企画書を作り構成を組み原稿を作り直しタイトルを決めデザイナーを選定し完成まで持っていった。

たとえばチームを組むことで稀代の編集者である佐渡島庸平の編集を間近で体感できる大チャンスであったわけだが、それよりもわたしは、佐渡島さんがわたしに田内さんを紹介した理由を自力で見出すほうを選んだ。この本の発端を作った佐渡島さんがどう読むかは、わたしの楽しみである。

さて、自由が丘で初めてお会いした田内さんは、わたしが「外資系金融」に抱いていた浅薄なイメージの対極にあるような朴訥で真面目そうな人だった。

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わたしの「外資系金融」のイメージ(Photo: Adobe Stock)

わたしに経済の専門性は皆無である。経済の本を作りたいと思ったことすらない。だからわたしは田内さんに「あなたが本を書く資格と動機を教えてください」と言った。

つまり、

・あなたは、これまで何をやってきたのか?
・なぜ、本を書きたいのか?

を、自分自身で言葉にしてもらうことを要請した。

なぜか。

わたしは、自分から著者に依頼して本を書いてもらう以外の本の作り方をほとんどしたことがない。

自分が起点になっていれば、

・わたしは、どんな人間か?
・なぜ、あなたに書いてもらいたいのか?

を著者に伝えることから始められる。そこに著者が賛同してくれれば本づくりが始まるし、断られたらそれで終わりだ。

だから、その逆をお願いした。普段、自分がやっていることを、田内さんにやってもらったのだ。自分が起点になっていない企画で、自分がその本に関わる確たる動機を持たぬまま作る本は存在自体が嘘になる。それは結果として誰も幸せにしないことだけは骨身に沁みて知っている。

田内さんの資格と動機にわたしが共感し突き動かされなければ、断るつもりでいた。そういうめちゃくちゃ偉そうなことをした。偉そうなことをしている全体で「こういうわたしと、あなたが書く初めての本を作るつもりがありますか?」と問いながら。

結果としてわたしは田内さんが真摯に文字に書き起こした資格と動機に何かが共鳴し、この本ができた。

そして、何に共鳴したのか、この本を作りながら気づいた。

わたしは、言葉を専門とする職業に就いている。

言葉と、お金は、似ているのだ。

言葉をどこから仕入れるかによって思考が方向付けられるように、お金をどう稼ぐかにその人の哲学が透けて見える。言葉の使い方に人格が出るように、お金の使い方に人格が出る。言葉や貨幣を扱うときに、その向こう側にあるものの存在をどれだけ、どう意識しているかが如実に現れ、あなた自身の生き方を決めている。

言葉や貨幣はあくまでメディアだ。何を媒介するかと言えば当然ながら人間である。そんなことは少し考えれば誰でもわかることだ。しかし、言葉そのものに、貨幣そのものに力があると錯覚してしまいがちになる。そこから人間関係はこじれていく。人間関係がこじれれば、人間で構成された社会は歪んでいく。

ことばのむこうに人がいる。

わたしがずっと考えていることと著者が書いた原稿との接点を見つけたとき、わたしには確かにこの本を作る資格と動機があると思った。

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