書く習慣が、「聞く力」を支える。
「人の話を聞けるようになるにはどうすればいいか」と質問されることがある。
人の話を、最後まで聞ききることができない。
人の話を、純粋におもしろがることができない。
途中で自分の話を挟んでしまう。
正直、自分の話を聞いてほしい。
聞けなくて自己嫌悪。
そういう悩みからくる質問である。
わたしはいわゆる「聞き上手」でもなければ、カウンセラーでも弁護士でもレンタル何もしない人でもないが、人の話を聞けないとやっていけない職業に就いているから、経験的に確信に近い考えはある。
人の話を聞けるようになりたいなら、ひとりごとを書くといい。
他人の話を聞ける人は、自分の話がつまらないことを知っている。「自分の話がつまらないことを知っている」というのは、「自分の話は誰かの話と比べてつまらないと知っている」という意味に限定されない。仮にものすごくおもしろかったとしても、おもしろい自分の話は聞き飽きている、ということだ。誰が聞き飽きているのか。自分である。
書くというのは、「自分との対話」であるとか言われる。メモ術とか日記とか内省を勧める本に散々書かれているし、書かなかったソクラテスの言葉を書き残したプラトンも、ソクラテスの話を自分を通して文字にして自分が理解しようとしたためだろう。知らんけど。
「自分との対話」などというと大げさな感じがするがつまり、書くというのは自分で自分の話を聞いてあげることだ。「誰かに話を聞いてもらいたい欲」が、文字を介して自分によって満たされているから、他人の話が聞けるようになる。わたしの周りでも、真剣に書いている人ほど、人の話をよく聞く。少なくとも、聞く余裕を持っている。
そして今はみんな、ソーシャルメディアで「ひとりごとを公開」できる環境を生きている。他人に面と向かってつまらない話をぶちまけなくても、会わずして「流し見てもらう」ことができる。自分で聞き飽きている自分の話が誰かにとってはおもしろい可能性を、会わずして問える。自分にはおもしろくても他人にはつまらないんだなと、会わずして知ることもできる。
書くのは孤独で、時に鬱屈したドロドロしたもので、とても美しい行為だとは言えないけど、他者を受け容れようとする土壌を自分で耕しておくことができる。聞きたいなら、書けばいい。聞いてほしいなら、まずは自分で聞いてあげればいい。
このnoteも、ひとりごとの公開である。もし誰かと「書く」と「聞く」の関係について話す場面が訪れたら、このつまらない持論があるからこそ、相手の話を聞くことができるだろう。