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音の校正

たとえば、ある文章の「だ」を「である」にするかどうかを悩みに悩んでいる人を見たら。「なぜ〜なのか」を「〜なのはなぜか」にするかどうかを長考している人を見たら。「、」を入れるか否か、何度も試行錯誤している人を見たら、こだわりすぎだと思うかもしれない。誰もそんなこと気にしないよと、思うかもしれない。

並べ方ひとつ、語尾の僅かな違いで、文章の意味やニュアンスは大きく変わる。それは、ある程度の量、文章を読めば、ある程度の量、文章を書けば、わかることだ。

しかし、書き手は、意味やニュアンスだけにこだわっているわけじゃない。文章とは、独唱である。句読点とは、休符である。

たとえば、大好きな曲のサビの最後の音符をひとつ変えられたら、台無しだと思うだろう。

わたしたちは文章を読むとき、音を再生している。書き手の音列をなぞっている。相手の言葉に何かを返すとき、音を放っている。意味より先に音が届いている。届けられない意味を、音は軽く越えていく。

わたしたちは、受け取られる意味をコントロールできない。意味だけを放つことができない。どうしたって、思ったとおりに伝わらない。どうしたって伝えられない。

ある曲を好きだと思っても、その詞だけが好きだと思う曲を聴き続けられるだろうか。音より先に意味が届くだろうか。「曲名 意味」と検索したところで、他人の解釈を見つけたところで、好きの理由が判明するだろうか。

ある文章を読んだ。どうしても意味のわからない文字列になぜか惹かれた。気になる。何度読み返しても理由がよくわからない。

それは、純度の高い音符である。

それが、その人の出したかった音である。

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