差別反対って何?

私の考えを表明すると、それを差別だと意見する人がいる。

私は性別はすべて生まれながらに決まっており、それを覆すことはできないと考えている。
自分の性別に違和感を持つ人もいるだろうが、あくまで自分の性別に違和感を持つ男性/女性である。「トランスジェンダー女性」と今日言われている人は、私にとっては自らを女性であると認識する男性であるし、その逆も然りである。

私たち女性、と主語を大きくして言いたいのは、性別によって分けられていることが女性にどれだけの不利益を与え、どれだけの加護を受けているかを考えてから、社会としての共通認識を持つべきということだ。

男女同権だの、男女共同参画社会だの、gender equalityだのと性差別を無くそうとする人々が掲げる言葉は多くある。その言葉を掲げなければならないほどには今の私たちは性別によって差別されている。
管理職割合やら、進学率やらで未だ女性が明確に劣る社会で、それを女性を優遇することで帳尻合わせなんかしようとする社会で、男性が女性になれるなんて、帳尻合わせにもなりやしない。

女性用のトイレに、男性が入っても構わないと一個人が思うのは勝手だが、そういう社会を望むのはこの世の性犯罪が無くなってからにして欲しい。
159cmの背丈で運動音痴の人と2mの背丈のスポーツマンが犯罪に遭う確率が同じになったら、性別によって分けられている社会を疑っても良いと思う。

これは差別なのだろうか。私は差別ではないと断言する。善良な少数者の幸せのために、善良な人類の半分が脅かされることなどあってはならないことは、善良な人類の大多数の平穏に、善良な少数者の犠牲があってはならないことと両立する。
一人の幸せになる権利と一人の不幸にならない権利は、不幸にならない権利の方が大切に決まっているのだ。

一人のトランスジェンダーの幸せのために、多くの女性が犯罪に怯えながら暮らす社会は間違っている。
だから、現在の性別によって分けられた社会は、分けられていない社会より怯えることが少ないことを認め、性別によって分けられた社会を維持すべきである。
セルフIDだトランスジェンダリズムだなんて言葉で、女性が安全に暮らせる社会を壊すことは許さない。

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