私らしく
薬を飲む。朝と晩と寝る前。飲まなきゃ生きていけないから。私らしくってなんだ。ずっと上手く言えないけど、疎外感を感じて生きてきた。こんちゃんって変わってるよねと言われて、お決まりのように反論していた。普通でありたかった。
級友たちが惚れた腫れたするのが、理解できなかった。ひとりの人を取り合うってなんだ。上手く3人でも4人でもいいから仲良くやれないのかよ。でも別に私は告白しようともされようともしなかったから、友だちでいられた。
セクシュアルマイノリティーという言葉自体はありふれて、高校生の頃には同性愛を語った新書を読んでいたし、なんだったら小学生の時にはもうミシマとか太宰とか読んでいるような暇人だったので、知識として知ってはいた。でも、自分がそうだなんて思ってなかった。ただ、恋愛感情がぼんやりとしている私は特別なマイノリティーなんかじゃなくって普通の端っこらへんにいるようなものなんだろうなと思っていた。好きになるのに女の子とか男の子とか気にしたことなかったけど、同性アイドルのファンは大勢いるし、もともとがぼんやりした好きなんだから性別もぼんやり決まってなくてもまあそんなもんかなって。
社会人になって、生活が変わって寂しくなって初めて、別に男の子とカップルになりたいわけじゃないって思って、たぶん別に男の子とカップルになりたいわけじゃないって特別なんだろうなって諦めた。
じゃあ女の子ならカップルになりたいのだろうか。よくわからなかったから、とりあえず、考えてみることにした。セクシュアルマイノリティーを名乗ったTwitterアカウントを作って、「ビアン」を自称する人たちの仲間になろうとした。でも、なんか違うなって。女の子とだって、カップルになりたいわけじゃなかった。
じゃあ、なんなんだよってセクシュアルマイノリティーの中にあるカテゴリに嵌めてみてでっぱったりへこんでたりした。諦めたような、誰にも通じないことが一種セクシュアルマイノリティーとかそういう特別な属性とかじゃなくて、唯一のそして誰もが持っている個性ってやつなんじゃないかって気がしたから、セクシュアルマイノリティーの人たちもあんまり知らないようなセクシュアリティーを名乗ったりした。でも、どこか歪で、文章には出来るのに単語にしてしまうことが怖かった。パンセクシュアルもクワロマンティックもエーゴセクシュアルも普通じゃない属性だからだと思う。言語化できない居心地の悪さがあった。それで、セクシュアルマイノリティーのどこかにいるんじゃないかなって思うだけになった。なんかそれも違う気がしたけど、マジョリティーじゃないということは私になじんだ。男性じゃない、動物でもないということは、女性であり、人間であるという事実より正確な気がした。
うつ病って診断はまあ、普通に罹る人もいるよねって思っただけだった。でも、発達障害って言われて、普通じゃないんだって思った。そうして初めて、普通の人に降りかかる普通の辛さが、私自身に降りかかる私だけの痛みになった気がした。うつ病だから辛いのは当たり前で、普通の人が普通に乗り越えていくものだから、痛くなかった。辛いけど、どこか他人事みたいにフィルターがあった。
発達障害って言われて初めて、辛さが私自身のものになった。それは一種の救いでもあった。私、普通の人じゃなくてもいいんだって諦められた。
私らしくってなんだ。少なくとも普通って呪縛から逃れられている私だ。
今、障害者としてとして生きて、少しずつ普通を諦められて、普通じゃない私が息をし始めた。それはきっといいことなのだと思う。普通という憧れを持っていたときは幸せだったけど。今は、苦しくてどうしていいかわからない時もあって、それでも、障害者って言葉が私らしいと思う。障害を持っている私という肯定型で表されるパーソナリティーが私らしいと思う。
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