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三島由紀夫『天人五衰』の風景(2.1)

信号所

はじめに

(2)に続いて安永透のいた駒越の信号所の話をするので、(2.1)としておく。このnoteは学術論文を目指してはいないので論理的な構成や文字数を、そして〆切も気にすることなく、思いついたことを書き並べているだけなので、現時点での落とし所も見通せていないのだけれど、多分このパートは長くなるので、ご承知おき頂きたい。
「ご承知おき頂きたい」ことがもう一つ。このパートは、「天人五衰」前半部のうち、いままで研究者・批評家たちがあまり注意を払ってこなかった駒越の信号所が登場する部分を微細に読んでみようという試みなのだけれど、信号所の建物があった場所はほぼ正確に確認できるし、実際、前に書いたように、三島の描写も取材に基づいてかなり正確だと言うことが判っているので、私の記述を理解して頂く為には、小説本文と実際の現地をある程度正確に把握して共通理解を得ておく必要がある。
そう言う意味では、可能なら現地に立って頂きたいのだけれど、さしあたり、グーグルマップを使用して、「駒越西1丁目8」に移動した後、航空写真や3Dモード、ストリートビュー、拡大縮小など、様々に試みながら、以下の文章をお読み頂ければ、より理解を深めて頂けるものと期待している。
以下、蛇足になるが、地図・航空写真・ストリートビューへのリンクを埋めておくので、適宜参照されたい(2021年12月現在)。

一応簡単に説明しておくと、地図上、交差点そばの不自然な多角形が、送電線鉄塔が建っている土台で、そのすぐ左下にある長方形が現在の貯水槽である。航空写真の方が判りやすい。ストリートビューに見える看板と白い柱がすなわち「天人五衰」文学碑である。
蛇足ついでに言うと、このコンクリートの貯水槽は、位置は殆ど変わっていないが、信号所があった当時のものではない。
それでは、これから改めて「天人五衰」の駒越を、最初から読み進めるとしよう。

「天人五衰」冒頭部分の語り手については議論がある。先まで読めば、これは「倍率三十倍の望遠鏡」を使用した透の視点と考えるのが妥当だが、それにしては大人びていて不自然である云々。興味深くはあるが、今、ここでは深く立ち入らないことにする。もっとも、その後の透の行動や興信所の報告から、図書館通いを好む知的で非凡な「認識者」であることを考慮すれば、透の視点に寄りそう語りとして、それほど不自然でもないし、実は本多よりも遙かに透の認識に近いものだと言うことも、追々明らかになっていくだろうと考えている。

冒頭「一」は、文庫にして5頁にわたり、誰のものとも判然としない視覚によって、海が広がり、その先に伊豆半島が遠望できる場所の、5月の風景が描かれる。「一」の最後で、改めて「駿河湾」であることが示され、「安永透は倍率三十倍の望遠鏡方目を離した。」という形で透の名前が初めて現れる。「清水船舶日報」の引用によって「一」は終わる。これによって、清水港の関連施設であることは判るが、ここが駒越であることは、まだ書かれていない。
土地勘のない読者にとっては情報不足だし、当時静岡・清水に暮らしていても、信号所の存在を知っていた人はそう多くはないだろうから、空間を正確に把握するのはもう少し待とう。今重要なのは、「乳海攪拌」であり、もつれあう「三羽の鳥」、「三つの思念」である(この意味するところについても後で述べる)。刹那刹那に変化する海の色、出現し、消えていく船、そして伊豆半島、空。それが、透にとっての「世界」である。

「二」は、「……本多繁邦は七十六歳になっていた。」と始まる。すでに述べたように、彼はたまたま日本平に用事があって、ついでに三保に立ち寄り、静岡から新幹線こだまで東京に帰ろうという途中、「一人で海辺に佇みたくなっ」て、駒越で車をおり、漂着物やゴミ、「地上の生活の滓」の散乱する海岸を散策する。そして、道路に戻ろうとして、「さっきは気づかなかった、小体な塔のような建物」に気づく。それは「車の停めてある県道のすぐこちら側、異様に高いコンクリートの基底を持った、二層の木造の白壁の小屋が見られた。見張り小屋にしては奇聳であり、事務所にしては貧寒だった。一二層とも、窓は壁面の三方に悉くつながっていた。
「好奇心にかられて」本多が「屋根のついた立札」にたどり着くまでの通路は、新しい貯水槽やフェンスによって失われているが、古い写真や小泉氏の証言などによって、かなり正確な描写であることがわかっている。
本多は、ここで振り返って、清水港を見下ろし、その向こうに富士山を見つけ、「満足」して去り、「二」も終わる。ここは重要なので引用しておく。

かえりみれば、足下の県道のかなた、ところどころに鯉幟の矢車をきらめかせた、新建材の青い屋根瓦の町の東北に、清水港の錯雑としたすがた、陸のクレーンと船のデリックが交錯し、工場の白いサイロと黒い船腹、しじゅう潮風にさらされている鉄材や厚いペンキ塗装の煙突が、一群の機構は陸にとどまり、一群は幾多の海を渡って来て、一ト所に落ち合い睦み合うあの露わな港の機構が遠く見られた。海はそこでは、寸断された輝く蛇のようになっていた。
 港のむこうの山々のずっと上方に、雲の中から僅かに山巓だけを覗かせた富士があった。あいまいな雲の中に、山頂の白い固形が、あたかも一塊の白い鋭い巌を雲上に放り出したように見えた。
 本多は満足してここを去った。

これは、本多にとっての「世界」である。小説の読者は、「一」で透の、「二」で本多の、殆ど同じ位置から見た全く異なる風景を見せられる。それは、この小説でこれから対峙する二人の「見る人」の認識、世界観の違いを明確に示している。そしてそれは、物理的に、と言うか、地理的に異なる方向を見ていると言う形で我々に提示され、この小説の構造そのものを予見している。それを理解する為には、「三」で詳しく語られる駒越の信号所の特異な構造と役割を少し詳しく見ておく必要がある。

すでに、「二」で本多が見上げる形で外観を紹介された信号所について、「三」では、まず室内の配置、そして職員たちの業務内容が紹介される。続いて透の、「自分がまるごとこの世には属していないことを確信し」ているという自己認識/世界認識を語った後、絹江が登場し、二人の奇妙な対話の後絹江が去り、夜勤の様子で終わる。
今前段で述べた地理的な問題を押さえておくために、室内の描写だけ引用しておこう。
窓の内側には造りつけの机が三方をめぐり、南へ向っては倍率三十倍の、東の港湾施設に向っては倍率十五倍の双眼の望遠鏡が据えられ、南東の角柱のところに、夜間の信号のための一キロワットの投光器が備えられていた。南西の角の仕事机に置かれた二台の電話機、本棚、地図、高い棚に区分けされた信号旗、北西の角の厨と仮眠室、これがこの部屋のすべてである。さらに東の窓の前に高圧線の鉄塔が見え、白磁の碍子が雲の色に紛れていた。高圧線はここからずっと海際へ下りてゆき、そこで次の鉄塔に結ばれ、又北東へ迂回しつつ三番目の鉄塔に到り着き、爾後は海岸沿いに、次第に低く小さく見える銀いろの櫓を連ねながら、清水港へ向かっていた。この窓から3番目の鉄塔がよい目じるしになった。入港船がこの鉄塔をすぎると、いよいよ埠頭を含む3Gの水域へ入ったことがわかるからである。
このあと、透の仕事の意味の説明があり、具体的なやりとりの描写がある。ここに出てくる投光器が、すなわち先頃「発見」された信号灯なのだが、ここで今注目しておくべきなのは、二つの望遠鏡である。30倍は南面に、15倍は東の港湾施設に向かっている。その2面の間の柱近く(実際には南側)に信号灯があり、これとは別に信号灯の上に載せる双眼鏡もあった。東面と南面に据えられた倍率の異なる望遠鏡は用途も違う。そのことに注意を払ってきた研究者がいたのかどうか。例えば、北川透は『三島由紀夫を読む』(2011 シナノ)所収「近代の終焉を演じるファルスーー三島由紀夫『天人五衰』(『豊穣の海』第四巻)を読むーー」において、透を紹介する部分で「彼は静岡の清水港に入ってくる外航船の国籍や種類を、望遠鏡で見わけて、信号を送り、海難事故防止などの航路案内を務める信号所の信号員であり、倍率十五倍の望遠鏡で〈船〉を〈見る人〉なのである。」と、無頓着ぶりを示している(「三」で透が使用しているのは基本的に三十倍の望遠鏡である)。この論考は非常に示唆に富んだもので、私自身、先述の語り手の問題を含め、これを書くにあたり、大きな影響を受けているだけに、驚かされた。そこは解釈にとって重要ではないのか?
上の引用文の後半、高圧線と鉄塔の配置と、信号所の建物の関係がイメージできない人は、先にリンクした地図などで確認してから読み進めていただきたい。
ところで、「3Gの水域」とは何か。信号所から数えて3番目の鉄塔を越えたあたり、というのは、御前崎側からにせよ、伊豆半島側からにせよ、駿河湾を北上して清水港を目指して来た船が、西側に向きを変える三保半島北面にさしかかるあたりと読める。実際はどうなのか確認するために海図を見ると、清水港が大きく三つの区画に分かれていることはわかるのだが、数字とアルファベットを組み合わせたようなグリッドは海図にはない。
この疑問から、田中氏とのやりとりが始まって、信号灯の存在に話が及んだのは、先に述べた通り。田中氏からは、本文中に登場する各種施設についてはご教示いただいたものの、「3G」という呼称に心当たりはないという。小泉氏や東洋信号通信社の現職員のお話によると、今、具体的な詳細は判らないものの、透が電話をする対象のような関連業者間で通用するオリジナルのグリッド図が共有されていたということらしい。三島は信号所取材の中で、その図を目にしたか、説明を聞いたかしたのであろう。
「三」の終盤には絹江が帰ったあと夜勤の透が投光器を使って交信する場面がある。ここは、既に述べたように「船の挨拶」を意識していることを再確認しておこう。

四・五・六

「四」は予定されていた夜の業務が終わって透が仮眠に入った同時刻頃、本郷に帰った本多の夢の描写に移る。ここで見る三保の夢については(1)で述べた。続く五は、未明から明け方にかけての信号所の様子。主に明るくなり始める伊豆半島方面の空、雲の描写が中心である。そのなかで、透は、自分は「夜明けの空がたまたま垣間見せる」「幻の王国」から来たのだと思う。

「六」は夜勤明けの帰路からアパートでの描写に移り、3つの黒子が登場して終わる。
いつからともなく、透はそれを自分があらゆる人間的契機から自由な恩寵を受けていることの、肉体的な証しだと考えていたのである。

七・八・九

文庫にして25頁に及ぶ「七」は、「暁の寺」以降の本多と慶子の様子を概観し、聡子と月修寺に思いを馳せ、最後、三保の松原へ行こう、と言う話で終わる。
ここで注目するべきは、本多の聡子/月修寺に対する過剰な思い入れと、慶子に対する評価の対比である。若干話題がそれるが重要なので引いておく。
それはあたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のような寺に他ならなかった。/ そこに聡子のいることが確実であるなら、聡子は不死で永久にそこにいることも確実のように思われる。本多が認識によって不死であるなら、この地獄から仰ぎ見る聡子は、無限大の距離にいた。あうなり聡子が本多の地獄を看破ることは確実なのである。
本多は明らかに自分の認識の地獄を自覚しているし、小説の終末は予見されている。そのように畏れ、遠ざけている月修寺には、慶子を連れて行くわけにはいかない。
慶子は第一、本当に日本文化がわかっているのかどうか、甚だ怪しいのである。しかしこのいかにも鷹揚な一知半解には好ましいものがあって、彼女はどこまでも衒いを免かれていた。
    …………
いくら知識を磨いても、慶子の目は日本の深い根から生い立ったものの暗さには届かなかった。ましてや飯沼勲の心をさわがしたあの暗い熱血の源などは無縁であった。本多は慶子の日本文化を冷凍食品だとからかった。

清顕、そして聡子や勲との関わりの中で、本多の「日本文化」は形成されている。それは、三島にとっての日本と、どこが一緒で、どこが違っているのだろうか。

「八」は、新幹線の車中、謡曲「羽衣」の一節を暗誦する慶子が「天人の五衰って何なの」と訊くところから、「天人五衰」について解説が始まる。既に触れたように「本多はこの間見た天人の夢から、仏書のうちに天人の事項を探していたので、慶子の質問にはすらすらと答えることができた。」そして、「本多はいささかも五衰を怖れていなかった。

「九」は慶子を伴って本多が三保を訪れた場面で、これも既に論じているので、やむを得ず「見られる人」になってしまった本多の「見る人」への転移や、慶子との「日本文化」への認識のずれ方を確認しておくことにして、いよいよ本多と透が対峙する「十」に進もう。
予想通りとは言え、いささか長くなったので、一旦ここで切ることにしよう。

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