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三島由紀夫『天人五衰』の風景(2)

信号塔の「発見」

はじめに

51年目の憂国忌、2021年11月25日付静岡新聞に、三島が訪れた駒越の信号所の現存確認できる唯一の遺物であり、小説にも登場する信号灯のことが掲載された。私も関わっていることなので、補足的な解説を記しておく。

信号灯の“発見”

駒越の信号灯が現存することを所有者以外で最初に確認したのは、当時清水港長であった海上保安庁の田中裕二氏である。彼は2018年度から2年間の在任期間が清水港開港120周年と重なったこともあり、清水港関連の海図を収集・整理・展示し、講演活動も積極的に行った。離任(海上保安大学校事務局長として転出)前の2020年3月、海図の研究成果をまとめた『海図で見る清水港の変遷 江戸幕末から平成までの157年間』を私家版で刊行(日本経済新聞「海図から見た清水港は? 郷土冊子に、海保職員」2020年4月24日)され、私も一部頂戴することが出来た。実は、この本の中で「天人五衰」に登場する信号所について3頁にわたって紹介し、信号灯が現存することも写真とともに触れている。

『海図で見る清水港の変遷』より

私は、20年11月のみほしるべイベントの準備のために「天人五衰」に出てくる港湾施設などの情報を得るために田中氏とやりとりをする過程で記事のことを教えていただいた。つまり、ちゃんと読んでいなかったという、失礼な展開になってしまったわけで、改めてお詫びと御礼を申し上げねばならない。
その後、船舶情報管理センター(東洋信号通信社)と連絡をとり、フェルケール博物館の椿原学芸部長と現物を確認したのが21年4月9日。元職員であり、三島由紀夫の取材も受けた小泉三郎氏宅でお話を伺ったのが4月23日。フェルケール博物館への寄贈が決まり、移動、小泉氏にも現物を確認していただき、改めて一緒に駒越を歩いたのは6月になってからだった。
なかなか情報公開、現物公開のきっかけが出来ないまま秋になり、51年目の憂国忌に記事が出たというのが大まかな経緯である。

信号灯の素性

田中氏の記事にあるように、この信号灯には銘板があるのだが、腐食によって判読は困難な状態であった。しかし、GENERAL ELECTRICの文字を含め、多少読める情報もあり、裏蓋にロゴマークらしきものも見えたので、検索してみると、支柱が異なるものの、同じ型番のものが海外のオークションサイトに「1945 Navy Morse Code Signal Light」として掲載されていることがわかった。

腐食した銘板
GEのロゴマーク
裏蓋に「NAVY MODEL」とある

これによって、銘板の文字を以下のように判読することが可能になった。

GENERAL ELECTRIC
12 INCH SIGNALING SEARCHLIGHT
CAT. A158G9
NAVY MODEL NO. 95313
NAVY CONTRACT NObs.20573
MANUFACTURED  1945
SERIAL NO.
INSPECTOR‘S
STAMP    
NP113701
MADE IN U.S.A.

銘板の文字

実は、小泉氏から、望遠鏡など、当時の信号所の備品の多くが払い下げ品らしく、電話以外は中古だったと伺っていた。小説の中でも古いことが書かれている。船舶情報管理センターの職員さんからも、各地で軍用品の払い下げと思われる物が使われていたと言う証言を伺っている。それらは日本海軍のもののように思われたが、これは米軍のものである。いずれにしても伝来の経路は今のところ不明である。

信号所のこと

さて、田中氏は昭和23年の海図を紹介する中で、駒越に「信号所」の文字が見えることを指摘し、「昭和28年航路告示」の記事を引用し、開設の事実を確認してから「天人五衰」の話に転じている。いま、孫引きになるが、告示本文をここにも記しておく。
清水市駒越1181番地に「東洋信号通信社清水港事務所」を設置し、昭和28年5月1日から船舶との通信連絡及び出入港船舶の動静通知等の信号業務を開始した/信号種類 旗流信号、発光信号、手旗信号」(昭和28年航路告示572項(昭和28年7月4日))
この部分には少し疑問がある。1948年の海図に「信号所」の文字が見えるのに、運用開始の告示が1953年なのは何故だろう。また、実は、海図では信号所の位置が、道路の北側になっているのも気になる。なお、図面上の「信号所」は戦前の海図にはなく、57年、66年と継承され、84年以降見られなくなる。
小泉三郎氏によると、信号所は駒越神社より更に北側、墓地やしらすを茹でる小屋のようなものの近くにあったこともあるとのことで、6月に周辺を歩いてみたが、確証は持てないままだった。
現在静岡市が公開している「住居表示の実施に伴う旧新住所変更対照表」には、清水市駒越1181番地」そのものの記載は無いが、近い番地は現在の「清水区駒越中一丁目」で、彼是併せて考えてみると、海図の「信号所」は駒越神社周辺にあったものを指しているのかも知れない。
ちなみに、興津埠頭の情報センターについては、静岡新聞1996年7月2日朝刊記事によって、同年7月1日に開所式が行われたことが判る。これも記事から一部引用しておこう。
清水港興津第一ふ頭先端にある同センターの監視用レーダー(五〇キロワット)、双眼鏡(二十五倍)で、同港に出入港する船舶、在港船の動静をつかみ、情報を提供する。船舶との無線交信で入港予定時間、係留場所、パイロット、タグボートの手配などを行う。清水市駒越で沖合を通過する船舶を確認し、同市の清水マリンビルで無線交信を行ってきた同社の業務はさらに充実する。

元職員

ところで、前出小泉三郎氏は興津埠頭にも勤務経験があり、日本経済新聞2009年1月10日夕刊「文学周遊(146)静岡市清水――三島由紀夫「天人五衰」」に興津埠頭の職員として取材記事がある。
清水港興津第一ふ頭の東洋信号通信社船舶情報センターに勤務する小泉三郎さん(58)は、小説が書かれた当時二十歳。泊まり込みで取材する作家と二十四時間過ごした。「一九七〇年の六月でした。上半身裸の三島さんが駒越海岸の砂浜に座り瞑想していたのを鮮明に覚えている」と話す。電話と双眼鏡があれば事足りた職場も、今は六台のパソコンが刻々と情報を届ける。
 モデルになった建物は取り壊され、跡地には作品の舞台である旨を記した看板が立つだけだ。土手を上り農業用貯水タンクの横に立つと、駒越の海が目に飛び込んできた。ビニールハウスが手前に広がり、海岸線に沿って走る道路は最近できたばかりだ。

私自身、駒越にいた元職員としては、小泉氏しかお目にかかることが出来なかったのだが、和久田雅之『静岡文学散歩』(羽衣出版 2004年)には「当時信号所には、大畑実、小泉三郎、根岸良博の三人が二名ずつ交替で勤務に当たっていた」とあり、信号所内の三島の様子の他、透の下宿の描写は当時25歳の大畑氏が下宿していた望月荘の様子に「ほぼ事実に近い」ことなど、大畑氏の証言を掲載している。
透の住んでいた下宿は、後(十六)に「養子縁組調査報告書」に「清水市船原町二ノ一〇 明和荘」と記述されている。(六)に見える透の帰宅から周辺の描写は詳細で、桜橋方面に向かうバス通りから左に折れて渡る小川は、今では桜の名所になっている大沢川だとわかる。この桜が当時はまだ無かったことも現地の人から伺って判明しているが、話がそれるので別の機会に譲ろう。

小泉氏からも、信号所内の様子、三島との会話など、色々伺うことが出来た。
信号灯関係では、小説に「投光器は蛙の目玉のようにその上に双眼鏡を載せている」とあることについて、30倍・15倍の望遠鏡とは別に、信号灯を使うときに船の方角を合わせるために載せるものだったことを教えていただいた。現在信号灯の頭頂部に塗料のはげた太い線が二本あるのはそのためらしい。
また、近所の農家から差し入れがあったこと、絹江のように出入りしていた女性もいたことなど、興味深い情報も頂いた。
それにしても、これまた失礼な話だが、当時20歳の小泉氏が、『金閣寺』など、三島作品を深く読んでいて、小説談義も出来たと言うことに、彼我の教養の差を思い知らされる取材でもあった。

作品の理解へ?

ここまで、再発見された駒越の信号灯を巡る情報を整理してきたが、これが、「天人五衰」を読むために何か新しい手がかりになるのか、と言われれば、否と言うしかない。現在、三島取材当時のものが何も残っていない状態で、唯一の重要な文化遺産である、と言う程度だろう。
ただ、創作ノートによれば、「天人五衰」には、短い戯曲「船の挨拶」(1955年初演)のテーマを受け継ぐ意図があったらしく、実際、陸地と船との交信の成立/不成立という問題は、手旗信号や信号灯の存在があってこそ成り立つ部分もあり、ロケハンで灯台よりも信号所が選ばれた重要な理由のひとつでもあっただろう。『潮騒』『船の挨拶』『天人五衰』に共通する「船舶通過報」に関しては「三島由紀夫の書簡9通発見 親交の男性に「懐かしい」」(日本経済新聞2018年7月23日)に指摘があることも付け加えておく。
書簡では、船舶通過報を担う孤独な少年を主人公にした戯曲「船の挨拶」を、鈴木さんをモデルに執筆したことも伝えている。文芸評論家の松本徹さんは「三島の最後の作品、『天人五衰』の主人公の仕事もこの船舶通過報だ。書簡は、『潮騒』から『天人五衰』まで、三島が、海や少年といった一貫したテーマを抱いていたことを示している」と分析している。

また、勿論、田中氏の調査のように、清水の港湾施設史の中での重要性はもっと大きく評価されて良いように思う。

長くなったので、このあたりで信号所・信号灯の話は一旦終わりにして、小説に描かれた信号所の様子、最近、平野啓一郎氏が「冒頭では海の描写が続き、清水港の信号所での透の仕事ぶりが延々と記述されますが、さすがに長すぎますよね。取材してきたことをそのまま書いている印象を受けます。」(『芸術新潮』2020年12月号)と述べた部分について、少し詳しく読む作業に入ろうと思う。

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