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長い自己紹介その2

随分と放置してしまいましたが長い自己紹介の続きを書きたいと思います。本日は4月33日。4月分の更新です。今回は、監査法人への就職から独立に至るまでを書きました。

前回の自己紹介その1はこちら

監査法人に入社

前回書いたとおり、トーマツのリクルーターの勧めであらた監査法人(現PwCあらた有限責任監査法人)に入社します。当時の監査法人は全員12月入社で、大学4年の12月から3月までは学生パートという立場で勤務させてもらいました。時給が学生としては破格な2,900円(記憶違いだったらすいません。多分。)でした。入社して一ヶ月はほとんど研修を受けて座ってるだけだったのですが、ほぼフルに参加して40万近くバイト代が出た覚えがあります(社保もなかったし)。この頃は試験勉強がなくなったことによる開放感と、貧乏学生が小銭をもったことで非常に楽しかったです。

英語

監査法人に入ってから最初はとにかく英語を頑張った記憶があります。担当していたのが外資の金融機関ばっかりだったので、マネージャー、パートナー共に外国人という業務も多く、英語を書き、喋る機会が相当ありました。入社時には、読み書きは受験英語でなんとかなるとしても、話すのと聞くのが全くできませんでした。所属してた部署には英語ができる人がたくさんいて、英語ができないとこの会社で未来がないなと思って、一生懸命勉強しました。当時はベルリッツの費用が出るという制度があり、毎週土曜日にベルリッツに通いました。1年くらいでTOEIC900近くまでは取れたので、相手が何を言ってるかくらいは大体わかるようにはなりました。ただ、話す方は全然でした。言いたいことの50%くらい。

今はほぼ100%日本語業務なのであんまり役に立ってはいないのですが、海外旅行にいったときには普通にやりとりできるので、その点はよかったかなと思います(笑)。閑散期には大体一週間単位で休みがとれたので、海外旅行にも英語の練習も兼ねて結構行きました。香港、ベトナム、インド、ヨーロッパetc。おかげで全然貯金ができませんでしたが、若いときの経験としてはよかったなと思います。

せっかくなのでどこかでまた英語勉強しなおしたいなと思うのですが、やはり優先度が低くて全然やらないですね(笑)。今はコロナで海外とのやりとりが減ってしまっていますが、グローバリゼーションの流れは変わらないはずなので、どこかで海外にも仕事を作って学びを復活させたいなと思っています。どこかで将来は、アーリークロス国際税理士法人に社名変更したいなと密かに思っています(笑)。

PwCは会社の雰囲気も4大の中では外資系っぽいカルチャーだったのかなと思います。外国人と仕事する機会も多数ありました。この点は、ど田舎から来たものとしては非常に面白くて、とてもいい経験だったと思います。

仕事のこと

入社時にはほんとに何もできなくて焦りましたが、いい先輩たちに支えられてとても鍛えられました。ハードスキルももちろんなのですが、ソフトスキルな面で今でも活きてることがたくさんあり、非常に感謝しています。具体的な話はお客さんの内情に関わるので書けないですが、「こんな指摘の仕方をすると経理担当の人の評価(クビ)に関わるからちゃんと根回ししてやらないとダメだよ」とか、「小西君のチャージレートに見合う分お客さんに貢献できてる?」とか、グサグサと胸に刺さったアドバイスをたくさんいただけました。監査業務は、会計技術的な側面ももちろん重要なのですが、プロジェクトマネジメントやお客さんとの調整・コミュニケーションも重要になるので、そのあたりが上手な上司はほんとにすごいなーと思いました。そしてすごいなーと思った方は、みなさん出世されているようです。やっぱすごい。

あらた監査法人はその設立の経緯もあり、非常に若い組織でした(経緯を知らない若い人は、なつかしいこのあたりを読みましょう)。

一緒に仕事をしてたパートナーでも40代で、あとはほぼ20-30代の同僚・先輩ばかりでした。今考えると非常に特殊な環境ではあったのですが、世代が近く非常に楽しかったです。たくさん飲みに行きました。いまでも色々と情報交換させてもらっており、大変ありがたいです。

独立にいたるまで

入社時には、将来的には金融に行きたいなと思っておりました。しかし、入社後に起こるリーマンショックやその後の不況を経験し、金融方面に行くのは止めることにしました。リーマンショックのときのリストラはかなり激しくて、部署ごと突然無くなるみたいなのを目の当たりにすると、なんか違うなという感覚を持つようになりました。人生は長いので人に死ぬまで必要とされるような働き方をしたいなと感じるようになりました。

もちろん監査という仕事も社会的意義のある重要な仕事なので、残って頑張るという選択肢もありました。しかし、当時ベンチャー企業も増えてきており、自分で事業をやってみたいという気持ちが高まり、退職を決意します。2011年に修了考査にも合格し、晴れて公認会計士登録ができるようになったため、退職をしました。

在職中から大学時代の友達と事業をしようみたいな感じで準備もすすめていたのですが、うまくいかず崩壊し、振り出しに戻ります(汗)。この振り出しに戻ったのが実は退職前だったので、このままではただの無職です(笑)。無職というわけにもいかないので、まずは自分の得意分野である会計を活かして、会計事務所をやってみようということになりました。自分で革新的なビジネスがつくれなくてもベンチャー企業の支援で貢献はできるはずと思ったのです。

我ながら心配になる状況ですが、この独立の最大のリスクは何かということをそのときに考えました。最悪の状況というのは、貯金が尽きて、生活に困り、再び就職をしなければいけないことになることです。恐らく前職の上司に「すいません、うまくいかなかったんで戻らせてください(ジャンピング土下座)」と恥を偲んでお願いすることです。この事実に気づいたときに「意外と大したリスクじゃないな。恥さえ捨てればなんの問題もないじゃないか!大したことないな!よしやろう!」ということで独立をしました。その後会社をやっていた祖母からも「慎太郎、頭を下げるのはタダや。自分で商売するなら頭下げるのを躊躇したらあかんぞ」というアドバイスをもらったので、やっぱり独立するならこれくらいのマインドもいるのかなと自己肯定しております。とはいえ、当時27歳だったからできた決断だと思います。自分以外からおなじシチュエーションで相談を受けたら止めたほうがいいよとアドバイスすることでしょう(笑)。

小西公認会計士事務所設立とその前にロングバージョン

2011年8月末でPwCを退職しました。27歳のときでした。会計事務所を始めることは決めていたのですが、独立すると忙しくなって旅行もできなくなるし、こんなに休める機会は老後までもないぞということで、その後3ヶ月ほど妻と新婚旅行を兼ねて海外旅行をしました。今文章にしてて思うのですが、呑気すぎて心配になりますね(笑)。運転資金削って遊んでんじゃねーよ!w

しかしこの旅行は結果的に非常によかったと思います。楽しかったのはもちろんですが、ときは311以後の不景気、PIIGSの財政危機で、1ドル=70円台でした。1ユーロも100円ちょっとで、大変お安く旅行ができました。過去最高の円高のときに旅行するなんて運がいいです。

また、旅行から帰ってきて、開業して少し経ったところで民主党政権が終わり、アベノミクスが始まりました。最初は仕事がなくて暇で株の売買ばっかりやってたのですが、アベノミクスで面白いように株価があがっていきました。これで当面の生活費を賄うことができました(笑)。

また、創業の地としてはスタートアップブームが興りつつあった福岡市を拠点に選びました(色々理由はあるのですが、このあたりはまたどこかで)。これも非常に運がよかった。若い独立している会計士・税理士なんてほとんどいなかったので、開業後には創業の相談を沢山いただくことができ、事務所の拡大につながりました。アベノミクスによる創業後押しの恩恵もかなり受けたと思います。

振り返ってみて本当に運がよかったなと思います(もちろん努力も苦労もしてますよ!)。なりゆきで会計事務所を設立しましたが、結果的に非常によかったなと思っています。顧問税理士としてお客様や地域経済に貢献できているというやりがいも非常に感じられておりますし、まだまだ大きな可能性のある業界だと思っています。正直、スタート時点ではかっこいい使命感みたいなのはなかったのですが、やっているうちに湧いてきた使命感に駆られてここまでやってきているように思います。自分の経験から、そんな起業も僕はありだと思います。

独立してから

先日、プロパートナーさんの士業業界ランキング500におきまして、全国3万会計事務所中第257位にノミネートしてもらいました。なりゆきで始めた会計事務所でしたが、途中でスイッチが入って、九州トップ事務所を目指して奔走中です。

ここに至るまでにたくさんのお客様との出会いや、迫田さんとの出会い、マネーフォワードさんとの出会い、花城との出会い、税理士法人化とあるのですが、力尽きたので今回はここまでとしたいと思います。また次回!

最後に、引き続き一緒に九州トップ事務所を目指す仲間を募集中です!ご応募お待ちしております。

最後までお付き合いいただきありがとうございましたmm

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